『カント哲学の奇妙な歪み』 冨田恭彦著

本書の最大の特徴は、カントを単独で取りあげるのではなく、ロック、バークリ、ヒュームとの関係において考察している点である。それも哲学史的な教養としてではなく、カント哲学とイギリス経験論の各々の内在論理をふまえて、それらの相互関係を通してカント哲学の特異性を明らかにしている。

私はカント哲学が苦手で何の親近感も持てないのだが、本書を読むとその理由が納得できた。つまりイギリス経験論を知らない限り、カントが何を狙っていたかが見えてこないからだ。

イギリス経験論は読みやすいようだが、なんとなくイケてない気がして、これまで一冊も読んだことがない。だからドゥルーズが『差異と反復』の冒頭で、経験論者が一般観念を、「それ自身において個別的なひとつの観念として提示する」と言っていることの意味も分からずお手上げの状態だった。

本書はそうした経験論における一般観念の議論にも言及されているので、未知の分野で難解であるが、読んでみようという気になった。

すると一見遠回りのように見えて、これこそがカント哲学を理解する最短のルートではないかと思うようになった。

カントの超越論的図式に時間が関係していることは、ハイデッガー廣松渉中島義道など多くの哲学者が注目しているところだが、本書はイギリス経験論における「一般観念」と対比してその意図が詳細に解明されているので、類書にはない視点がある。

カントが像とは区別して「図式」という概念を提示する狙いは、イギリス経験論との比較によってはじめて明瞭になる。

例えば犬という一般観念は、それに対応する直観像が存在しない。柴犬やプードルなどの個別の像を持つことができるだけで、犬そのものの像を思い浮かべることはできない。三角形という一般観念も同様であり、無理に像を思い浮かべようとすると、四足動物や三本で囲まれた平面などの曖昧な像が思い浮かぶのだが、それらもやはり曖昧なままの特殊な像の一つであって、たとえ不定形な三角形を思い浮かべたとしても、それは二等辺三角形や直角三角形などのすべての特徴を含む像ではない。すると一般観念に特殊が含まれることがなぜ可能となるのか問題となる。

著者によるとロックは多様な個別観念の共通部分として像なき一般観念を想定し、バークリは個別観念を一般観念の代理とし、ヒュームは一般観念を個別観念群の連想機能とすることで解決したとしている。

これに対し、カントの解決方法は独特であり、一般観念は個別の像を生成する規則としての「図式」に結びついているものとして解決している。したがって「図式」は像ではなく、像を生み出す規則、いわばアルゴリズムのようなものである。

例えば犬という一般観念は、柴犬やプードルなどの個別の像を生み出す規則であるということである。規則だからそれに対応する具体像は存在しないが、一般観念と特殊との結びつきが「図式」によって可能となる。

この「図式」の考えは一般観念を個別像の連想機能とするヒュームの考えに似ている。ほとんどパクリのようなところがあるが、決定的に異なるのは、連想は経験的だが、規則(アルゴリズム)は超経験的であるという点にある。

例えば「五」という観念には五つの点という像を対応させることが可能である。しかし「自然数」という観念には、無限個の点という直観像を対応させることはできない。ヒュームの連想機能では限界がある。しかしカントのように一般観念が像を生成する規則であるとすると、点を無限個並べていく規則である「図式」によって自然数の一般観念と無限個の点を結合することができる。だから「図式」とはペアノのアルゴリズムのようなものと言えるかもしれない。

かくして経験的な一般観念については問題解決したが、すると次にいかなる経験的な直観像とも関係しない純粋悟性概念が問題となる。(著者は「純粋知性概念」としている。中山元も同様だが、カント学者の中には「悟性」ではなく「知性」と訳す学派もあるようだ)

「原因」とか「相互性」などの純粋悟性概念は、いかなる具体像も生み出すことがない。

試しに「原因」の像として、ビリヤードの球の衝突などを思い浮かべたとしてもそれは、あるイベントのあとに別のイベントが継起したという像であって、原因そのものの像ではない。

であるにも関わらずなぜ経験的直観が純粋悟性概念に包摂されるのか、つまりなぜカテゴリーを現象に適用することが可能となるのか、これがカントの問いである。その答えが純粋悟性概念の超越論的図式である。

つまり純粋悟性概念である「原因」の超越論的図式とは、あるイベントのあとに別のイベントが継起するという規則である。それは規則であって継起する像ではない。同様に「相互性」の図式は、ある実体が別の実体と同時に存在する規則である。こうしてみると超越論的図式が時間に関係していることが分かる。そしてカントが初めに時間を感性のアプリオリな形式とした理由も分かってくるのである。

以上、本書のごく一部を私見をまじえて紹介したが、これ以外にも「物自体」や「無限判断」などの論点についてイギリス経験論と対比した解明がなされていて、実に興味深く有意義な本である。