『やがて君になる』 仲谷鳰著

一昔前なら私のような年齢の男がこの種の漫画を読むことはあり得なかったのだが、いずれにせよ電子本が普及したせいで気軽に読むことができるようになったのは漫画界の発展にとってまことに慶賀すべきことである。

精神科医でもある斎籐環の定義によると「オタク」とは「二次元キャラでヌケる人」らしいが、そういう意味では私はオタクではない。(きっぱり)それに私はいわゆる「百合」というジャンルについて格段の関心があるわけではないが、映画の『キャロル』を観て、漫画もチェックしてみようという気になったわけである。だが、ほとんどの作品は私の趣味に合わずパスしたいものばかりであったが、この作品だけはタイトルといい、表紙(特に第2巻)といい、凜とした爽やかさを感じ心惹かれるものがあった。作者のペンネームもセンスがいい。鳩子の鳩ではなく、鳰(にお)という珍しい鳥の名前であるが、出身県の県鳥ということであり、郷土愛を感じさせる。

ある人物の発散する印象は、それ自体として強固な力を持つものであり、第一印象が覆ることは滅多にない。同様にこの作品もまた最初の印象どおり、というか印象を上回る内容である。

作者はこの作品で距離感のある恋愛という不思議で独自な世界を切り開いている。吉田戦車の「距離道楽」ではないが、イイ感じの距離感である。先輩後輩の関係だが、後輩の方は誰も好きになれず「特別」という気持が分からない、だが二人の友達としての関係は続いているという設定である。これはまったく前人未踏の世界へのチャレンジであり、ドラマになりにくい題材と思われるのだが、実に繊細なディテールによってドラマが成り立っている。つまり誰も言葉にすることが出来なかった微妙な関係を見事に描いているのである。

特に第三巻の相合傘の場面が見事であり、友人や姉などの様々な人との関わりのなかで、相合傘となってしまう状況設定が前振りとして描かれている。一見、どうということもない自然な流れのように見えるのだが、友人も姉も異性との関係によって主人公が孤立してしまうことが、必然性として描かれている。巧いものだ。さらに貸出用の傘が壊れていることまで描き込んでいるのだから驚く。自分の楽しみで描いている凡庸な作者であれば、相合傘の場面に熱中して、こうした細かい前振りを疎かにしてしまうのであろうが、丁寧で細密な描写が、この漫画に異様な現実感を与えている。

相合傘の場面は作者の実体験が反映されているのだろうか、瑣末なことなのに、というか瑣末であればこそ心が揺さぶられるような詩情を感じる。忘れかけていたが、大昔、私にも似たような経験があった。肩が濡れているのを気づかってくれたのもそっくりである。だからこそ手をさしのべて「嬉しかった」というまなざしが永遠のもののように感じられる。しかもその「嬉しかった」にはヘンな意味はないのである。「嬉しかった」のは友達や姉にフラれたからであり、手をさしのべているのは先輩の濡れた髪を拭いているからである。作品プロットのすべてが日常のありふれた一瞬にすぎないことを示している。しかし誰であれ、目の前の相手が手をさしのべて「嬉しかった」と言うならば、その一瞬を永遠のものとして心に刻みつけるのではないだろうか。瑣末なことを描いているからといってこの作品が瑣末だということにはならない。ありふれた日常と永遠が交錯する一瞬を、この作者は作品の冒頭から緻密に計算して組み立てているのである。この感想文のようにいささか大仰な感情ダダ漏れではなく、細部まで芸術家魂によって彫琢されている。そのような表現が漫画で可能であるとは実に驚くべきことだ。最後は背が低いと言われた後輩が家に帰って「ぐいぐいのびる」牛乳を飲んでいるカットで終わるのだが、文脈ずらしの技法として完璧である。

この作者は相当よく考えて作品をつくっている。それにしてもこの距離感を維持しながら第三巻まで緊張感を失わず描き続けるというのはもの凄い才能である。同時にこの距離感の設定は確信犯のようでもある。恋愛といえば退屈な日常からの逃避あるいは脱却であり、相手を自己の魂の救済のように考える人が多い。(典型的なのはワグナーのオランダ人であろう)この作者が非凡であるのは、逆に日常の細部に向かっているからだ。他者への共感によって、ありふれた日常の中にこそ永遠がひそんでいることを知覚している。そこには完全無欠の絶対の歓びがある。だからもうそれ以上の何も要らないのだ。これに比べると大袈裟な恋愛悲劇はいささか子供じみている。なぜなら、悲しみには他者への共感がないからだ。賭けてもいいが、人は自分が悲しい時は子供のように自分にこだわっているだけであり、他者への共感能力は失われているのである。三巻を通じて登場人物の表情の動きが実に細やかに描かれているのだが、ただ一つ描くことが拒否されている表情がある。それは涙であり悲しみである。この漫画は他者への共感が悲しいということはあり得ないことを教えている。ここに描かれている二人の女子高生が並の大人よりもはるかに成熟した印象を受けるのはそのためであろう。本作品で描かれている他者への共感は唯一・単独のものであるから、多くの人がこの作品を自分にとって唯一・単独のものと思うに違いない。