『マチウ書試論』 吉本隆明著

昔、初めてこれを読んだ時、異様に感じたのはタイトルにもみられる独特のキリスト教用語の読み方である。キリスト教にあまり関心のない私ですら、マタイの名前ぐらいは聞いたことがある。それが「マチウ」である。イエスは「ジェジュ」、パウロは「ポウル」、ヨハネは「ジャン」、ベツレヘムやガリラヤなどの地名まで「ベトレム」「ガリレ」と徹底している。
これはおそらく著者がアルトゥル・ドレウスの『キリスト神話』を参照していることに起因するのだろうが、それにしても一般に定着している読み方に逆らって、あえて異なった読み方を押し通す必要があるのだろうか。それに、ドレウスに言及しつつも、一体どの部分がドレウスの引用でどこが著者の見解なのか不明瞭なのである。(別に査読付きのアカデミックな論文ではないとしても、現在なら編集者がチェックするだろう。昔は大らかだったのかもしれない)
さらに著者は冒頭で、マチウ書を「読むにたえない幼稚な、仮構の書」、「資料の改ざん」、「人類最大のひょうせつ書」等と罵倒しながら、最後の数頁において突然「関係の絶対性」という概念が出てきて、原始キリスト教を「正当化しうるものがあったとしたら、それはただ関係の絶対性という視点が加担するよりほかに術がない」と結論している。
表面的に読むと、著者はマチウ書を肯定しているのか否定しているのか、論旨が支離滅裂であり、よく分からないのである。
おそらく著者のねらいはキリスト教批判にあるのではない。欧米と異なりキリスト教が世俗的権力を有しない日本において、そのような批判が無意味であることは承知のうえで、キリスト教批判に仮託して「関係の絶対性」という視点を析出したように思われる。
このことが世間からズレたキリスト教用語の読み方に反映しているのではないか。
それでは冒頭の激しい罵倒は何故か? 最後に正当化するために罵倒せざるを得なかったのである。原始キリスト教を罵倒するのは、それが詐欺まがいの剽窃によって絶対をオートマチックに追求しているからである。それにもかかわらず、マチウ書においては、預言者が故郷で受け入れられないという現実、パンに象徴される飢えという現実があることも否定していない。絶対を追求する者が相対性を自覚する一瞬があることをマチウ書は記録している。
吉本はそのことを「関係の絶対性」という概念で正当化するのである。原始キリスト教が世間に反逆していなければ、「関係の絶対性」が浮上してくることはなかったのである。
「関係の絶対性」は概念としてみるとマルクスが資本関係と資本家の意識について言い古した論理であり、たいした独自性はない。
吉本に独自性があるとすれば、認識の勝利でもなければ乗り越えでもない。ただ「関係の絶対性」との総体的対峙を貫くことに意義があるとしている点である。
一見、それは挫折に似ている。そして明らかに吉本から言語理論や経済学(!)を抜き取ることが挫折に終わることは自明である。しかし、吉本がその全理論を通じて対峙しようとした現実の正体を暴露することは続行されねばならぬ課題である。

<捕捉>
「関係の絶対性」とは吉本自身が説明しているとおり「人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるもの」であり、「自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない」ということである。
したがって絶対者(イエス)は神としては人間関係を超越しているはずであるが、故郷では親子や兄弟という人間関係が強いる絶対性のまえで、神であるイエスもその中の一員として「相対的なものにすぎない」ということになる。
マチウは、そのことを「預言者は故郷では受け入れられない」と言いあらわしており、そのような「関係の絶対性」を正面から捉えているのである。吉本はその点についてマチウを正当化しているのである。ここまでは誰でも分かる。
難解なのは、だから何なのだ?ということである。
マルクス資本論にも書いてあるこの単純な概念によって、なぜ当時の人間があれほどまでに震撼されたのか、それが不可解なのである。
私は吉本の独自性は、この概念を一般的に理論なるものについて自己言及的に適用してみせたところにあるのではないかと思う。
すなわち理論なるものは、「関係の絶対性」について盲目でありうることを、思考の生態として指摘したことが独自なのである。
当時の左翼はマルクスを通じて「関係の絶対性」ぐらいは分かっていたはずだが、それでも日本の現実を捉え損ねていた。
理論を理解するだけでは不十分であり、「関係の絶対性」を生きる必要があったのである。
『転向論』において吉本が擁護する中野重治も日本の現実を捉え損ねていた点では佐野学と同様である。にもかかわらず吉本が中野を擁護するのは、作品世界の中ではあるが、この「関係の絶対性」を現実に生きて経験したということ、そしてなお書き続けることを選択したことにあると思われる。 
絶対者が相対者になり、相対者が絶対者になる、などというヘーゲル流の言い草は、それ自体が理論であるから吉本は詳しく説明しなかったまでのことである。
あるいは最終的に「往相・還相」という概念で言い当てようとしたのかもしれないが、あまり明瞭ではないというか、吉本の主張には常に、そこまで言わなくてもいいだろうという抑制が働いているように思う。それは曖昧さとは断じて異なる。明晰さを誇示することが日本型モデルニスムに過ぎないという自己批判である。理論よりも生きることの方が重要なのだ。
したがって吉本の個々の主張には明晰さが欠けているかもしれないが、それでも「関係の絶対性」に強いられて自らその概念を黙示的に生きたということは確かであり、その事実の前には理論的に明晰であることに何の意味があるか。