『中型製氷器についての連続するメモ』 岩成達也著

この詩集には原文でマラルメの次の一節が引用されている。
「その純粋な輝きがこの場所にあてがう幻影は/無駄な逃亡の間、この白鳥が身に背負う/侮蔑の冷ややかな夢想に浸り、動くことはない」S.マラルメ<白鳥>のソネット。 
これは池の氷に閉ざされた白鳥に託して、静止した瞬間を主題とする詩であるが、まさにこの『中型製氷器』の主題と共鳴するということであろう。白鳥=Cygneは、予兆signeでもある。
「中型製氷器」とは今では見かけなくなったが、ステンレス製の長方形の皿に、小さな羽根のような金属片の仕切りがあり、上部のレバーを引くと、仕切りが前後に動いて採氷できる仕組みの容器である。そこには何か過剰なものがある。
つまり単にアイスキューブを採氷するだけなら、現在のプラスチック製のアイストレーで充分であり、あのような細かな機構は不要なのである。金属製であるから冷凍庫に底がくっついてしまい、それを引きはがすための小さなテコのようなレバーまで付属しているのである。
冗談としか思えない煩瑣な機構であるが、目的達成のための筋道は欠けるところがなく無駄な機構はない。
著者はその「製氷器の構造の特徴である形態の端正さと結節部の不必要な多さ」に注目するのである。
だがそれにしても中型製氷器が一体どうしたというのか。その容器について180頁にわたり記述するのは馬鹿らしいというか、狂気じみているのではないか?
そのことについて著者は冷静に「それをそこにあらしめる私達の視線そのものに帰着させるというのが、一つの穏当な解決方法ではあるまいか」と提案するのである。
この詩集はⅠプロポジション(メモ1,2)、Ⅱヴァリエイション(メモ3~10)、Ⅲアプリケイション(メモ11,12)の三部で構成されており、全体で12のメモがある。
岩成達也の詩は内と外との関係記述が多いが、内面はない。『レオナルドの船』のダイアグラムにしても、内世界性は内側性に含まれる概念である。
この詩集においても中型製氷器は「内面をもたない」で始まるが、内側の構造はメモ1により仔細に記述されている。だが、その煩瑣な機構は脆弱さを抱えており、メモ2においては「把手にかかったあまりにも過度の負荷と精神集中」により破損してしまうのである。
しかし「破損しばらばらな状態になったときにはじめて明瞭にあらわれてくる幾つかの事柄」が解き明かされる。つまり「把手より発生する運動脈を順次隣接する梯形へと送り込む役割(二重脊椎)」である。
こうして全体として捉えると、「ばらばらに成った状態において、いまや公然と、中型製氷器」とCYGNE(白鳥)との「関係が外的にも記号化されえる」のである。
さらに凍結したものの内的不均質から、白鳥「内部に抱えられた無数の天使群」という「荒唐な思い」が生じるのだが、その内的不均質の由来について、著者は「三つと半分ほどの要因から過不足なく説明する」ことができるのである。

だが破損した中型製氷器はどのようにして再生されるのか?

いうまでもなく「固化の機能それ自体は元々がいささかも損なわれている訳ではない」
「問題は明らかにその先-逆固化再生の作業にある」つまり「この度は把手はまったく無力」なのである。このため筋肉による振動と熱の伝播が必要となるのだが、その二つによる溶解は「かつての如く同時的かつ連続的に生じる訳では決してなくて、あくまでも離散的に」進められるのである。

以上がⅠプロポジションの概要であり、中型製氷器の形態についての考察が主題となっている。Ⅱのヴァリエイションにおいては、中型製氷器の材質や他(パセリ)との関連が記述される。材質については「stainless steelについて簡単に想像すること」において、<ss>の擦過音と二枚の羽根と細い糸thin stringとの関連が論じられる。
しかしさすがにメモ5にいたると、「反芻は循環を引き起こす」として対話の必要性が自覚されるのである。
そこでKを相手として手紙が書かれるのだが、その内容は中型製氷器とパセリとの関係である。
この二つは「機械と植物」の関係として、「機械は動くが、植物は動かない」と一応整理されるのだが、しかしそれは「外側」から見ているのであって、「内側」からみると、「機械は動かず、植物は動く」ということになる。
そこからさらに「機械は外側しかなく、植物には内側にしかない」という「いささか不安定な整理」にたどりつくのである。
メモ7にいたり、「洗槽の中に放置」された中型製氷器に、「水が、透き通った筋肉達が」製氷器に「衝突し、砕け、小さく不規則な飛沫」となり、「金属片は外側の枠組みのなかで、小刻みに痙攣しながら、捩れるようにもちあげらえる」のである。
「このようなことどもが依然として選択と放棄との無秩序な連鎖にすぎないとしても、これらの連鎖、これらの現象全体を通して、再び限りもなく瀰漫し断えることなくその細部を更新し続ける一つの視線のごときものの現前を想定することは、私達になお可能なのではなかろうか」と問題提起し、「問題が解けないということと、問題に不感無覚であり続けるということとは、おのずから異なった事柄である」と私達に反省を促すのである。
以上のような中型製氷器をめぐる考察はメモ9において、回顧的に整理され、「中型製氷器は基本的には多次元的な格子構造体」であり、把手、ハニカム状の金属枠、受容器により、構造や作動の動きに若干複雑な要素が潜在しているのだが、「構造破損の途筋そのものが構造によって与えられる」つまり「破損にいたる過程がある種の記号図形として構造自体のうえに先取りされている」ことが解明されるのである。
これらのメモを通じて著者が確認していることは、「支離滅裂で単調な進行」とは「ある外的な枠組に従う過度に整然とした展開」なのであり、「飛躍と感性の動きの厳禁」は中型製氷器を「括弧にいれ」るがゆえに「ある自由な、あるいはある空虚な拡がりをその周囲にとりもどすことができ」るということである。
そのとき、「ゆれ、あるいは滲みをもつものは、そこでみられている中型製氷器だけではないのである」ことが確認される。