『レオナルドの船に関する断片補足』 岩成達也著

岩成達也の詩集である。「レオナルドの船」という題名から、船が主題なのかといえば、そうではなく、マリアが主題のようである。
まず「半島にて」という冒頭の詩で、十字架を背負った船が巨大なフォルテのように垂直になり、「そのままのすがたで、かぎりなくかぎりなく小さくなる。」
次の「海の想い出」という詩のなかの一編「マリア手を焚くこと」により、以後、マリアが主題となる。
それにしても、この詩集は「想い出」の多い詩であり、全十六編の詩の中で「海の想い出」「鴎の想い出」「島の想い出」「樽切れの想い出」「納屋の想い出」と五編も「想い出」がある。静物を主題とする「かわいた魚に関する断片」「しおれた果物に関する断片」においても、「においの強いさけ目のある想い出の体」など、「想い出」が詩の中に出てくる。
これはおそらく、マリアを「形骸としての奇蹟」「くみつくされたマリア」としていること、すなわち、「マリアにおけるあらゆる拡がりは記憶空間」であり「マリアは自足自結、あたし達においてはじめから死んでいるとしかいいようのない存在」だからと思われる。
この詩は聖母マリアから聖性を引いた「マリア」の神学であり、歌わない詩である。
巨大なフォルテが限りなく小さくなるのであるから、囁き声よりもさらに小さな声であり、伝達することを予め断念した擬論理である。最初に登場した船は帰還しない。
途中で一枚のダイアグラムが「船に関する断片目次」と題して示されるだけである。
だが、最後の一編「法華寺にて」において、8年の歳月の後に初めの船が比喩として還って来る。つまりこの詩集は8年間にわたり発表された詩の集成なのだが、もはや船は実体ではなく、「あたしにとっては、船の場は、もはや存在しないと信じるの他はない」のである。
したがって、この薄い詩集には、多くの作家が辿ったプロセスが要約されている。あたかも言葉を完全に自家薬籠のものとしたそのとき、言葉それ自体が狂気へと変成するかのようである。あたかも文体を持つということが、単なる意匠ではなく、世界の創造であるとき、文体それ自体の個別性が消滅するかのようである。あたかも「あたしの内側における非現実」が「不断に消滅を続ける空間」であるかのようである。
そのとき、多くの作家は生きている限り、否応なく自己省察という日常に還って来るのである。とりわけ詩人が自己省察を行うことは詩それ自体の死であり、最後の一編は次のように終わる。
「消滅とは空虚自体に他ならぬが故に、それは、噴出する非現実に、つまりは、みずからの場でない場(擬場)を噴出することに即して果たされる消滅そのもの」であるとして、自ら消滅せざるを得ないのであるが、これが詩と言えるだろうか? むしろ「死と分娩」ではないか。全十六編の中で異例というか、この一編は浮いている。
どうもマリアという観念自体が、たとえ聖性を引いたとしても、擬論理の繁殖性を停止させたのではないかという疑いがある。
つまり「原罪としての擬空間」は消滅せざるを得ないだろう。