『巨人頭脳』 ハインリヒ・ハウザー著 松谷健二訳

SF読むのに理由はいらないだろうが、まあ、暇つぶしといえば熱狂的なSFファンからお叱りを受けるかもしれない。かくいう私は、中学生の頃、創元推理文庫を総ナメする勢いで読んだものだが、50年前当時はまだ出版点数も少なかった。スミス、ハインラインアシモフブラッドベリなど大御所をおさえ、ヴォクトとかベスターなどのイロ物を拾っておけば、一応SFファンを自称できた。ようやくバラードがぼつぼつ出始めた頃である。サイバーパンクなどはるか先のことだった。

やはり当時はSF映画が少なかった。そりゃ『2001年宇宙の旅』とか『猿の惑星』など今や古典的名作がリアルタイムで上映されていたわけだが、一年に一本程度で、その間をつなぐものがない。今ではビデオで好きなときに好きなだけ観ることができるのだが、当時はSF小説が映画の代用だった。

ということは、SFというジャンルは文芸でもなく科学でもなく、何か常識はずれの新奇なものへの好奇心を満たすことが最大の目標であって、今から思うと子供っぽいと同時に、なにか純粋なものがあるように感じる。今どき何の意味も求めず暇つぶしに本を読むというのは贅沢なことだ。

本書は中学生になったばかりの頃、文庫本なるものを友達の家で初めて見かけて感化されて読んだSFだった。アメリカ中西部の砂漠に頭脳トラストという軍直轄の人工都市があり、周辺の山脈の地下のどこかに「巨人頭脳」という大規模な人工知能の施設があるという設定である。こういう書き出しは、あの頃のTVドラマの『タイムトンネル』を感じさせる。1962年の原作だから、集積回路が特許申請された頃であり、断定はできないが、規模が大きいので人工知能の細胞は真空管なのであろう。神経回路を覆っているリグニン溶液が冷却用かどうか説明はない。この辺は白蟻との関係が伏線になっているようだが、ストーリーとしてやや安直である。

本書もまた、人工知能や核の脅威など、それなりに現在のリアルを先取りしているように読める部分もある。例えばこの「巨人頭脳」である人工知能は、軍から命令された仕事以外に、増幅した余剰能力を使って勝手に「機械学習」していくわけだが、主人公の生物学者とともに生物進化の過程を学習して、植物から動物へ、動物から人間へと進化するにつれて運動エネルギーが高まっていることをふまえ、進化の意味は物質からエネルギーを解放することであるという結論に達している。その含意は人間による核分裂の発見が進化の最終段階ということである。

この種のストーリーは類似のものが数多くあるが、たいていは人間の側からみた機械を描いている。これに対し、本書の独自性は機械の側から人間を見ているということである。

だから人間は機械の主人だという反論は軽く一蹴されている。人間を生み出したのは猿であるが、だからといって人間は猿を親として尊敬しているか、と「巨人頭脳」は問い返している。

本書の結末はネタバレになるので紹介しないが、すべてが徒労に終わり何の解決も示されていない。着想は面白いが、取り立てて他のSFをしのぐほどではない。不思議なのは、このような本書の装丁を大江健三郎の装丁で著名な司修が手掛けていることである。やはり当時はそれなりに評価されていたのだろうか。最初のSFとして選んだのも、この表紙の絵に惹かれたということもある。今では余程のSFファンでなければ誰も読まない本であろう。古本も1円である。

SF映画がつまらなくなってきたので、ようやくSFを小説として再読してみる気になった。久しぶりに本書を読み返してみて思い出したことがある。それは昔、読書を娯楽としていた時期があったということだ。今は読書が娯楽かといえば抵抗がある。読書は命である。

私が学生の頃は漫画を読むことが、教養に対するプロテストとしてあった。そんな面妖な時代もあったのだ。さすがにそれは馬鹿らしいと思うようになったが、そのため、たらいの水と一緒に赤子を流すように、漫画も娯楽小説も読まなくなってしまった。

だが、あれだけ無意味なハリウッド映画を観る時間があるのだから、代わりに読書を娯楽とする時間があってもいいだろう。SFと向き合ううえで大事なことは、高望みしないことかもしれない。イーガンを真面目に読むと眠くなる。何か面白く突飛な話を一つ、映画の代わりにでも読んでみるという感じで読む方が小説の中に入りこめる。CGは見られないが、想像世界のグラフィックがある。