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『サルトルとマルクス』 北見秀司著

一昔前ではあまり売れそうにないタイトルだが、現在では逆に読書欲がそそられる。
内容も期待にたがわず、フーコードゥルーズネグリらの見解をふまえており、一時、流行しかかった趣味的なサルトル懐古ではなく、ポストモダンを踏まえた本格的な論考となっている。そのポストモダンについては次のように要約されている。
フーコーにあっては、権力の「流れ」と抵抗・自由の「流れ」の理論的区別に関して困難があり、ドゥルーズ=ガタリにあっては、肯定的な「流れ」と自己破壊的「流れ」、この二つの「流れ」を支える力に関する理論が欠けていた。ネグリ=ハートにあっては多様なネットワーク型の支配権力と多様な差異を孕む「マルチチュード」の理論的区別に関する困難があった。一言で言えば、三者ともに、民主主義思想に大きな問題を抱えていた。(94頁)
はあ、民主主義思想?と思われるかもしれないが、著者の「民主主義思想」は後に紹介するようにサルトル思想と関連する深い意味があり、記述概念ではなく規範概念として特異なものである。
もっとも、このように三者を包括的に捉える視点こそ、三者が拒否しているものであるかもしれないが、サルトルの見直しという著者の目的に照らすと、あたかも複雑な思考の絡み合いにより見えなかった視界がスッキリと晴れ上がるような感を得る。
これら三者について抱いていた漠然とした疑問や不満を、うまく言い当てているというか、言葉によって見事に形を与えているのである。
サルトルといえば、現象学の真意をつかみ損ねて、現象学が脱却しようとした主観・客観図式に再び舞い戻っており、どう贔屓目にみても既に終わった思想という感が強いのであるが、著者によると、逆に現象学が閉じこもろうとした超越論的観念論を外へ開くために、現象学から離れていったということである。つまりサルトルは意識の本質論的なドラマではなく、外へ向かうために現象学を捨てたということである。
イデーンⅠ』以降のフッサールを含めて、すべての意識には「私」が伴うという考えは、反省によってはじめて生まれたものを、反省以前的意識に投影するという錯視に他ならない。(110頁)
ここがサルトルについて見解が分かれるところであるが、著者によると「前反省的意識」とはいわゆる意識ではないのである。少なくとも「私」に向かう意識ではないことはサルトルの言うとおりであるが、著者のサルトル解釈に従うと、サルトルは常識からかけ離れた意識観を持っていたことになる。つまり、反省しない意識は「私」に向かわないという意味で、非人称的意識ということになる。
例えば窓の外をぼんやり眺めているとき、私が見ているという反省を伴わない限り、それは誰が見ているのでもない非人称的な眺めだというのである。比喩的にいえば、人は反省しない限り、禅的境地にあることになる。だが、それほど簡単に「私」の呪縛から逃れられるものだろうか。錯視であるからこその呪縛であると言われれば、それはそうかもしれないが。
この点について、フッサールは「私が見ている」という考えを捨てきれないので、たとえ超越論的意識と心理学的意識を理論的に峻別したとしても、超越論的意識に自我が密輸入されることになる。だが、サルトルは超越論的意識に自我の導入を拒否したというのが著者の解釈である。
私の記憶では確かにサルトルは『存在と無』において、金を数える事例など、著者の解釈を補強する事例を多々指摘している。読んだ当時は「反省」という言葉の語感からあまり本気にその意味するところを考えず、まあ、反省すればそういう見方もできるだろう、ぐらいにしか考えていなかった。
だが、著者の解釈を徹底すると、サルトルは反省以前と以後において、同じ意識であるにも係わらず、人称の断絶を見ていたことになる。極端に言えば、一種の精神分裂である。
同じ風景があるときは私の世界であり、あるときは誰のものでもない世界になる。
すると平坦で統一的で均質な世界像は反省的意識による錯視であり、我々は常に分裂した世界を生きているのかもしれない。事の当否は別としてたいへん刺激的な解釈であると思う。
著者はメルロ・ポンティが後期フッサールサルトルが中期フッサールに依拠しているというリオタールの解釈を退け、むしろサルトルと中期フッサールとの差異にこそ注目するのである。
「超越論的現象学」の研究対象は、意識と「世界意味」との関係であるのに対し、サルトルの関心はもっぱら、前反省的次元における、意識と、意識とは異なるものとしての世界の存在との関係、「世界意味」に還元されえない世界の存在との関係にあった。(130頁)
したがって、サルトルはメルロ・ポンティと対立するどころか、「世界をその不透明性、超越性、意識からの独立性において捉えようとする」点で類縁性があるということになる。サルトルの『存在と無』といえば、対自と即自の二元論、つまり主観・客観図式という理解になりがちだが、そのような図式的理解はメルロ・ポンティのサルトル批判の影響であり、著者によると対自は純粋無ではなく、無化作用であるから、二元論ではないという。
著者によると、「対自の事実性によって即自と対自は結びついて」おり、「この事実性によって、対自は、いつも、世界のすべての相にではなく、ある相にのみ面している」のであり、「世界への根拠なき現前」を引き受けているのである。『存在と無』の冒頭で、現象学の射影理論に言及している理由もそこにある。私などはあの部分を読んだ時、何と皮相浅薄な現象学理解かと思ったものだが、著者によると現象が射影によって与えられるという視点は、後の状況論まで射程が及んでいるのだから、それなりに一貫した思考であることが分かる。
したがってサルトルが「上空飛行的思考」により世界を意識の相関物として透明に捉えていたとして批判するのは誤解であり、「事実性により、意味付与は意味生成と等価となる。人は目的を選ぶことはできても、思いのままに世界の意味を作ることはできない」のである。
サルトル的自由についても、著者は従来のイメージ(自由の刑)を一新して、意味創造の力、差異化の力であるとしている。対自は即自に世界を到来させるが、その世界とは、差異化した複合体であり、この世界をもうひとつの世界に向けて乗り越える運動であり、絶えざる差異化の過程に他ならないとしている。
サルトルの他者論についても、「語るとは私の対他存在、ひいては他者の非現前を受け入れることである。それは私の表現の『意味』が私から絶えず流れていく」というのであるから、デリダの他者論や言語観と類似している。確かにデリダの方が精密な論理になっているのであるが、それは程度の差であり、「非現前の現前」と「差延・代補」との類似性は否定できない、と指摘している。
もし話された言葉がすでに書かれているのでなかったら、文字は発明されなかったであろう。
これはデリダが言っているのではなく、サルトルが『弁証法的理性批判』の中の言っていることであるというのだから、その類縁性に驚く。
さらに、サルトルの死の概念が、マルクスのいう「死んだ労働」が「生きている労働」を支配しているということ、ドゥルーズのいう「自己抑圧を行うのは死が欲望する」ということ、これらの死をめぐる考察と類似しており、少なくとも「超越論的現象学」の枠を逸脱することは確かであると指摘している。
著者は自己への反論を想定しながら堅実に論証を進めている。サルトル思想における差異を著者がいくら強調してみても、サルトルが究極において「即かつ対自」という総合的統一性を多数性よりも優位においている限り、自己同一性によって己の存在を正当化していることに変わりはないという反論である。
著者はこの反論をある程度認めており、サルトルの悲壮感(人間存在とは「不幸な意識」である)はこの自己同一への希求から生じているとしている。
そこから著者の重要なサルトル評価が出て来る。著者によるとサルトルは『存在と無』において差異を発見したが、それを価値として肯定しなかった。しかし『存在と無』は前反省的意識と「不純な反省」(対自を即自とみなす自己欺瞞)のみを対象とし、「純粋な反省」(対自を対自として反省すること)は「カタルシス」として簡単に言及するだけで、将来の課題としている。この「純粋な反省」こそ、差異を価値として肯定することであり、倫理学の問題であるというのである。
このことから、著者はサルトルの未完成の倫理学が「複数の対自の還元不可能な複数性を肯定する」という意味で「複数の自律」を目指していることを、死後刊行された『道徳論手帳』により探求しているのである。最初に引用紹介した「民主主義思想」という言葉には、この「複数の自律」という規範的意味が込められているものと思う。このことを著者は「ポスト脱構築的な倫理」と呼んでいる。

著者は決してサルトルの提灯持ちではない。直接言及されていないが、著者の思考の背景にはサルトル死後の旧ソ連崩壊を踏まえた今日的課題の探求がある。旧ソ連崩壊の歴史的意味は、私的所有を国家的所有に置き換えただけでは、疎外がなくならないということを明示したことである。
著者が初期マルクス疎外論サルトルの『弁証法的理性批判』を見直ししているのは、そういう文脈であろうと思われる。
サルトル思想は、結論として人間は自由に呪われているとか、不幸な意識であるとか、ダウナーな表現が多いが、著者の見解によると、そうしたダウナーな表現はヘーゲル的主体との格闘にあるとしている。だからこその苦悩であり、もしサルトルヘーゲルに一致しているのであれば、絶対精神を肯定することで何の苦悩もないはずである。
著者はサルトルが探求したものを、ポストヘーゲル的主体の構成として読み解いている。そしてそのような主体を、「複数の自律」という概念で再生しようとしている。
フーコーの言う「人間の死」が誤解とともに一定のリアリティがあったのは、現実の根拠があると著者は指摘している。「死の欲動」は、マルクスのいう「死んだ労働」に「生きた労働」が従属していることの反映であるというのが著者の見解である。サルトルの表現では対他に対自が従属しているということになるが、同じことである。
マルクスフロイトとの関係など聞き飽きたつもりだが、こういうふうに「死の欲動」と関連づけられると新鮮な驚きがある。
本書はサルトルが主題であるが、標題からもうかがわれるとおり後半からはマルクスがとりあげられている。そこで著者は特別剰余価値に言及し、資本制生産関係が生産力を発展させているのであるから、生産力の発展が生産関係を覆すという史的唯物論と矛盾すると指摘している。この指摘などは不意打ちのようにアッと驚く。

確かに特別剰余価値シュンペーターイノベーションに通ずるものがあり、ということは資本主義は生産力の無限の発展を内在しているのだから(そのことは誰も疑わないであろう)生産力の発展が生産関係を破壊するという史的唯物論と根本的に矛盾するのである。あるいは逆に資本制生産関係を破壊するような「生産力の発展」とは何か、これを解明することが史的唯物論の最大の課題であり、そうした探究は第三次産業に着目するネグリなどが無意識に行っているかもしれないが、経済学として表立って課題とするべきであろう。あくまで印象論であるが、この点で最も深い考察は岩井克人の論考にみられるようだ。ただ、岩井克人の労働価値説批判は、商品価値を労賃・地代・利子による価値構成とみるアダムスミス流の支配労働価値説に近いものがあり、マルクスの投下労働価値一元論とは無縁と思われる。岩井克人剰余価値を認めないのは、それが原因ではないかと思う。

本書からやや脱線したが、他にもW-G-WからG-W-Gへの転化による貨幣から資本への転化という聞き飽きた説明についても、著者によるとその転化は自動的に生じるのではなく価値観の転換が必要であると指摘している。つまり個人的な使用価値の享受目的から、価値増殖を目的とするエートスの転換が必要であるということであり、その点ではマルクスヴェーバーはそれほどかけ離れていないというわけである。
他にもデリダ批判など興味ぶかい指摘が多々あるのだが、著者が自立思考の持主であることは明らかである。
ポストモダンの思想家に対する著者の批判を要約すると、彼らが差異の肯定を称揚しながら、結局、差異の特異性を見出す方法論が欠けていたということである。「他者」概念を強調するあまり、他者一般と様々な他者の実存とを混同しているという指摘はなるほどと思わせる。また、共産主義的人間とは何かという問題をサルトル的な大時代の問いとして退けたことが、結局のところ、革命の自然発生論と前衛論との狭間で、何一つそこから脱却する指針を見出せなかったことに繋がっていると批判している。

以上、本書は近年まれにみる刺激的な論考であり、サルトルを本気で再興するものとしてまことに喜ばしい成果である。