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『フロイト講義<死の欲動>を読む』 小林敏明著

ドゥルーズの『マゾッホとサド』を読んでいて、「死の本能」について知識がないので、この本で補充することにした。(「死の欲動」「死の本能」ともにTodestriebの訳語である)
著者の本は何冊か読んだことがあるが、いずれも斬新な視点が提示され、これまで考えていなかったことに刮目させられるものばかりである。
著者はまず死というものはヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」であり、認識にとって本来考えられないものであるとしている。
しかし、人間の認識は常にネガからポジへ進化してきたのであり、例えばatomやindividualは「分割されないもの」であり、当初は認識にとってネガであったが、現代では自然科学と社会科学の両面において重要な概念となっている。さらに暗黒物質ブラックホールも当初はネガであったがポジになりつつあるという。
著者の見解では、この「死の欲動」が重要であるのは、本来思考しえないものであった死の概念に欲動を結びつけることにより、初めて認識にとってネガからポジへ移行させた最初の概念だからとのことである。

よく考えてみれば認識不可能な死が欲動するというのであるから、その不可解さに気づかなかったのは、いかに言葉に対する感性が鈍いかということを思い知らされるようだ。
このように著者は初めに「死の欲動」ありきで説明せず、なぜその概念が重要なのかを説明しているので、初心者には甚だ親切である。
また「死の欲動」に限定せず、精神分析の起源からトポス論・力動論・エコノミー論まで概説してあるので、精神分析の概要を知るうえで有用である。

この厚さの本で、無意識の歴史まで説明されているので情報量満載である。まず無意識はフロイトの専売特許ではなく、ロマン主義の画家フリードリヒの友人であった医師のカールスが最初に無意識の概念を打ち出したという。フリードリヒが明るい俗世界を取り巻く神秘的な自然を描いたように、人間の心も無意識から理解すべきであるということである。
当時の動物磁気magnétisme animalについても訳語が不適切であり、animalは動物というよりはanimaの変形であり、ユングのアニマにも通ずるという指摘は興味深い。
シェリングの世界観は、スピノザの能産的自然に呼応して、世界霊が自然を動かしているというものであり、その動きが制止したものが、個々の自然対象であるというものであるが、著者によると、この考え方はフロイトによる無意識の活動が制止・抑圧されたものが意識になるという考えに対応するとのことである。
さらにショーペンハウアーは、人間は単なる認識主観ではなく、自ら物自体であるとして、その内的本質には、「内なる道が開かれている」としているが、その内奥にある意志は、認識を生み出す主体の内奥から出て来る衝動のようなものであり、フロイトの無意識と26項目の共通点があるという。死とペシミズムに強い関心を持つのも両者に共通している。
以上から、著者によると精神分析フロイトの個人的な思いつきでもなく、降って湧いた奇想でもないということになる。
著者はフロイトの方法について豊かなイメージで説明している。もしも暗闇の中で世界がどうなっているか探究するならば、手探りして何かしっかりしたものに頼らざるを得ない。それを手がかりに、次のしっかりしたものを探すのだが、それが何であるか分からないので差し当たり何らかの観念を仮定しておくしかないというのである。
死は思考不可能の真っ暗闇であるから、試行錯誤の極致となる。たとえフロイトが自ら「過剰な思弁」であると断っていても、精神医学的に無意味な研究であるということにはならないのである。
「私自身は信じてもいなければ、これを他の人たちに信じてもらおうと努めるものでもない」というフロイトの結語は、暗闇の中の手探りであることを考慮すると誤魔化しのない誠実な言葉であるように思われる。
さらに著者は「思弁」Spekulationについてラテン語の語源によると「偵察」という意味があることを指摘している。思弁も投機も所与のデータ以上のことを推理するという点で共通しているわけだが、死という思考不能なものに直面したフロイトが思弁という言葉を使用したのは正確であり、翻訳語から連想されるように単なる思弁哲学を展開しているのではなく、暗闇を偵察しているということである。
さらにパラダイム・チェンジには仮説が大きな役割を果たすが、フロイトが臆面もなく思弁や仮説という言葉を乱発するのは、意識中心主義からのパラダイム・チェンジを図っていたからだという。
語源にまで遡ってフロイトを解説しているのだが、叙述は生き生きとして説得力があり「面白いぞーッ!」と叫びたくなるような本だ。本というものは合う合わないがあるものだが、この明快な分かりやすさには感動する。万人に勧めたくなる本である。

本書により、いかに精神分析を誤解していたかがよく分かった。例えば戦争神経症というのは、外傷性神経症とは異なることも初めて知った。
戦争神経症といえば、映画のランボーを思い出すが、砲撃のショックなどの悪夢は外傷性神経症であってフロイトのいう戦争神経症とは異なるということである。もっともランボー2や3の好戦的な性格は戦争神経症かもしれない。
では何が戦争神経症なのかといえば、この本では具体的症例が記載されていないので分かりにくいが、wikiで調べてみると「砲撃によらない長期の戦闘体験など」で発症するとある。さすがwikiフロイト理論をしっかり踏まえているわけだ。
私なりに想像すると、「ラストサムライ」の主人公が子供を撃つ場面を悪夢で繰り返し見るのが戦争神経症ではないかと思う。砲撃などの外部衝撃がないのだから。
著者によるとフロイトはそこに外傷性とは異なる心の内側からの衝動を仮定したということである。その衝動が「死の欲動」であるが、これはメタサイコロジカルな超心理的概念であるから個人心理と直接の関係はない。ラストサムライの場合は悪夢なのだから個人心理とは背反している。
著者はこのあたりの事情をショーペンハウアーの意志の盲目的運命などを参照して説明している。この外傷性神経症と戦争神経症との微妙な差異が分からないと、フロイトが講義の中で戦場からの帰還兵の症例と自分の孫の「いないいないばあ遊び」fort-daを並列して分析する意図が分からなくなるのである。孫の遊びは恐怖ではなく、歓びなのだから事例としても帰還兵とつながらない。
フロイトはこれらの不快の反復強迫を説明するため、「死の欲動」を仮説として立てたわけだが、著者によると死についての哲学的考察はヘーゲルからハイデッガーに至るまですべて生の否定、すなわち生の空集合としての考察でしかないのだが、フロイトによって初めて死がポジティブに捉えられたという。
つまり死が生を基礎付けているということであり、生体が自己維持するために不要な部分を死滅させるという当時の生物学的知見を参照して、すべての生体に「死の欲動」があると仮定したのである。
これがなぜサディズムに結びつくかといえば、自己保存のリビドー(エロス)が介入して自己破壊を回避するために「死の欲動」を外部の対象へ向けるからであり、それが破壊衝動であるという。内部にとどまった場合がマゾヒズムである。
つまりサディズムタナトスではなく、エロスとタナトスとの拮抗関係としてある。純粋なタナトスであれば何の快感もないであろう。
このようにフロイトは力動論を性欲動と自己保存欲動の二元論からエロスとタナトスの二元論へ組み替えたということである。
あくまでフロイトの仮説であるが、それにしても分かりにくい。サディズムについてはある程度分かるが、マゾヒズムになると自己保存欲動のエロスがどのように介入するのか理解しがたい。著者もそこは説明していない。
著者独自の仮説としては、フロイトが「死の欲動」概念のもとに同一視した「無機物への回帰」と「破壊衝動」を分離して、再生系の細胞に起こるアポトーシスに「破壊衝動」を対応させ、非再生系の細胞におきるアポビオーシスに「無機物への回帰」を対応させているのが興味深い。iPS細胞など現代生物学の成果を視野に入れて考察しているところは、ドゥルーズのような思弁とは異なる魅力がある。