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『ロートレアモン全集』

その1

今回は「ゴーマンかましてよかですか?」と言わねばならないが、そう言えば、おめえはいつだって傲慢ではないかと言われそうだが、私は根は礼儀正しい小心者であって、ただ、役人じゃないのだから情報量優先のため丁寧語や婉曲表現をあえて使わないだけである。

とはいえ、さすがにフランス語もロクにできない素人が栗田勇石井洋二郎の両者の訳を比較検討するとなると、「ごめんなさい」とあらかじめ断っておいた方がいいかもしれない。あるいは『ビッグバンセオリー』で六カ国語が話せるというハワードに対するレナードのセリフ、 Save it for your blog.を思い出すが、まあ確かにこれはブログだから構わないだろう。Bon douche. See-ka-tong-guay-jow !

石井洋二郎訳(筑摩書房刊)には詳細な訳注がついているのだが、本文の方は素っ気ない訳であり、栗田勇訳(人文書院刊)のような面白さがない。
これに対し栗田勇訳はそれ自体が独自の詩のような訳文であり、それが原文に内在する魅力なのか、栗田勇の創作なのか分からないところがある。よって、長年愛読してきた栗田勇訳の魅力的と思われる部分について、石井訳と比較検討してみたい。

ものみな泡なりとつげてくだける泡のもの憂いざわめきにつきそわれ。(栗田勇訳31頁)
その後には消えていく泡の物悲しい音がして、すべては泡であることを私たちに告げる。(石井洋二郎訳22頁)

accompagnès du bruit mélancolique de l'écume qui se fond, pour nous avertir que tout est écume.(le livre de poche p.42)

 どうでしょう、栗田訳。遊んでますね、という感じがする。昔、初めてこの訳文を目にしたときショックを受けた。だが石井訳と比べて読むと、原文本来の意味というよりも、仏語と日本語が衝突した詩的効果のような気がする。例えば、accompagnéesの意味は確かに、付き添う、伴う、などであるが、「つきそわれ」はいかにも直訳風であり仰々しい。だが、avertir「告げる」と重ねると音として詩的効果が醸し出されている。「ものみな」と「もの憂い」の重なりなど、栗田訳は音の響きにこだわっている。これに対し石井訳は意味を忠実に捉えることに専念しているといえるだろう。

あるときは、恐怖で気の狂った、とある老婆の悲鳴が相場にプレミアをつけた。
栗田勇訳123頁)
あるときは、恐怖で気が狂ったどこかの老婆のわめき声が市場で人気を博していた。
石井洋二郎訳85頁)
Tantôt, le beuglement de quelque vieille, devenue folle de peur, faisait prime sur le marché.(le livre de poche p.100)

この栗田訳も初めて目にしたときは、なんかよー分からんが、これこそロートレアモン的衝突という感じがして頭に血がのぼったものである。だが石井訳をみると、なんとも気の抜けた当たり前のことを言っているに過ぎないことが分かる。faire primeは熟語であり、株券が値上がりする、評価が高い、もてはやされる、などという意味である。「プレミアをつけた」はちょっとヤリ過ぎであろう。marchéには確かにmarché des actionsで株式市場の意味になるが、相場はcoursであり、marché単独では石井訳のとおり市場であろう。faissaitはfaireの半過去であるから、やはり石井訳の方が原文に忠実であると思われる。しかし、しかし!である。たとえ誤訳の疑いがあろうと、「あるときは」と「とある」、「老婆」と「相場」、「悲鳴」と「プレミア」など、畳みかけるように言葉を重ねてゆく栗田訳の方に私は魅力を感じる。「老婆の悲鳴が相場にプレミアをつけた」Charmant ! これ自体がロートレアモンにインスパイアされた日本語の詩のようだが、石井訳は正確ではあるものの詩としてのショックがなく、説明文である。

手に女の首をもち、その脳みそはなめちまったが、・・・そのあいだ、ぼくの胸板は、墓石の蓋のように、静かに波だちもしなかった!(栗田勇訳137頁)
頭を手に、頭蓋骨をかじりながら、・・・そのあいだも私の胸の皮膚は微動だにせず平静だった、墓の蓋みたいに!(石井洋二郎訳95頁)
Une tête à la main, dont je rongeais le crâne,・・・pendant que la peau de ma poitrine était immobile et calme, comme le couvercle d'une tombe !(le livre de poche p.109-110)

石井訳のように「頭を手に、頭蓋骨をかじりながら」と言われても、それがどうしたの、と言いたくなるが、栗田訳で「手に女の首をもち、その脳みそはなめちまったが」とやられると、頭のイカレた詩人がふざけている様が目に浮かぶようだ。だが、ronger は囓る、噛むであり、なめるという意味はない。rongeaisは半過去である。le crâneは頭蓋骨であり、脳みその意味はない。la peauは皮膚である。よって石井訳が正確であり、栗田訳は誤訳に近いのだが、このフレーズは「・・・」の部分を変奏しながら、四回繰り返されるのである。回を追うごとに巧みな変奏によって、言葉の連なりが次第に複雑になってゆき、機関車が暴走して気分が高揚するような見事さがある。残酷というよりも、どこか滑稽な感じのする反復なのである。
すると、どうだろう。石井訳で四回繰り返されるとうんざりしてくるが、栗田訳のリフレインは中原中也へのオマージュのようなところがあり、早熟な若者の天才が感じられる訳となっているのである。
しかし、石井訳の注は驚くほど詳細である。「女の首」の女とは「良心」la conscienceのことなのだが、マルドロールが「良心」の頭con(卑語)を引っこ抜き、下半身を追い出したというのは、残りのscience科学を追い出したことを意味するというのである。本文より訳注の方が面白い。

以上、比較検討したところ、作品として通読する場合は栗田訳の方が適している。石井訳は研究書のような趣きがあり、読んだ時の面白さは感じられないが、訳注には謎解きのような面白さがあり、背景を深く理解するうえで有用である。

 

その2

その1では私の趣味により栗田訳を石井訳よりも高く評価したが、その埋め合わせに、今度は不明瞭な栗田訳に対して石井訳がいかに明快であるかを指摘しておくのが公平であろう。

教えておくが、耳まで裂けた笑い顔がその中央部に持っている無味乾燥をやわらげるためには、この場合何でもよいから液体が必要なのだ。(栗田勇訳188頁)
しかし言っておくが、何らかの液体がここでは必要なのだ、耳のところまで裂けた笑いが内部にかかえている乾きを和らげるために。(石井洋二郎訳132頁)
mais, j'avertis qu'un liquide quelconque est ici nécessaire, pour atténuer la sécheresse que porte, dans ses flancs, le rire, aux traits fendus en arrière.(le livre de poche p.144)
石井訳は、que porte, dans ses flancsを「内部にかかえている」としている。つまりflancは脇腹という意味であるが、文語的表現として「臓腑、胎内」という意味があり、これを採って「内部」としたものと思われる。これを栗田訳のように「中央部」としてしまうと「はて?」と思う。なんぼ詩とはいえ、顔の中央部に無味乾燥があるだろうか?

また石井訳ではsécheresseを「乾き」とすることで、液体を必要とする理由が明快である。栗田訳は「無味乾燥」としており、液体の必要とは直接繋がらず、意味が不明瞭になっている。

さて、自分らとちがう性格に難癖つけようといつもしている者たちが、文句をつけるさいに、雛をよぶめん鶏の喉声を出そうと、牛に独特な啼声をあげようと、このぼくとしては、いっこうに狼狽しないだろう、というのもそれは、骨組を統御するようにと神が原形からはずさずに創り給うた、無数の智的変更能力の一つだからだ。(栗田勇訳183頁)
この私は、自分の性格に似ていない性格を見るといつも何か文句を言わずにはいられない連中の、雄鶏みたいに珍妙な鳴き声や牛のように風変わりな鳴き声にうろたえたりはしないぞ。なぜならそうした性格も、神が最初の原型から逸脱することなく、種々の骨格を支配していくために創造した無数の知的変異のひとつなのだから。(石井洋二郎訳132頁)
Quant à moi, je ne me laisserai pas décontenancer par les gloussements cocasses et les beuglements originaux de ceux qui trouvent toujours quelque chose à redire dans un caractère qui ne ressemble pas au leur, parce qu'il est une des innombrables modifications intellectuelles que Dieu, sans sortir d'un type primordial, créa pour gouverner les charpentes osseuses.(le livre de poche p.144)

栗田訳は悪訳なのか、詩的表現なのか、判断しかねるスレスレの危うさがある。「骨組みを統御するようにと神が原形からはずさずに創り給うた」は、いかになんでも意味不明であろう。この点は石井訳も同様なのだが、ただmodificationsを石井訳では「知的変異」としているのが決定的に優れている。これを栗田訳のように「知的変更能力」としたのでは、原文のもつスピノザ風の意味合いが失われるのである。

le gloussementというのは妙な単語である。男性名詞なのだが、意味は雌鶏の鳴き声であるから、オスなのかメスなのかはっきりしてくれといいたくなる。石井訳はこれを「雄鶏」としてしまったのだが、うっかりミスであろう。もっとも次のように栗田訳でも雄鶏と雌鶏を取り違えているのだから、ロートレアモンの詩で鶏の性別は鬼門である。

君、君のうらやむべき沈着さも君の顔いろを美しくしているにすぎないし、いまだ中学三年の生徒のように、十四行や十五行の詩節のなかで、調子はずれとしかいえないような叫び声や、ちょっと想像しただけでも、このうえなくグロテスクな、コーチシナの雌鳥の声高らかなコケコッコを、喉からしぼりだすことが問題だなどとは思わないでくれ給え。(栗田勇訳275頁)
あなたよ、うらやましいその冷静さもせいぜいご面相を美しくするのが関の山だが、今度もまた十四行か十五行の章節の中で、第四学級の生徒よろしく、場違いと思われそうな叫び声をあげたり、その手間をかけさえすれば想像できそうなほどグロテスクな、コーチン種の雌鶏のよく通るコッコッという鳴き声を出したりするつもりなのだとは思わないように。(石井洋二郎191頁)
Vous, dont le calme enviable ne peut pas faire plus que d'embellir le facès, ne croyez pas qu'il s'agisse encore de pousser, dans les strophes de quatorze ou quinze lignes, ainsi qu'un élève de quartirième, des exclamations qui passeront pour inopportunes, et des gloussements sonores de poule cochinchinoise, aussi grotesques qu'on serait capable de l'imaginer, pour peu qu'on s'en donnât la peine. (le livre de poche p.201)
私は栗田訳の乱暴なところが好きなのだが、残念ながらpoule雌鶏は「コケコッコ」とは鳴かない、雄鶏だけである。よって石井訳の「コッコッ」が正しい。しかし、「コーチシナの雌鶏の声高らかなコケコッコ」にはなんとも捨てがたい魅力がある。そこは雄鶏にできませんか? とロートレアモンに注文したくなる。
しかし、長い間、私はこの部分について、君が中学三年の生徒のように叫んだり喉からしぼりだすのかと誤解していたが、石井訳をみると、どうも作者が詩の中で叫んだりするつもりだと君は思うなと言っていることが明瞭に分かる。つまり「いまだ」を「今度もまた」に変えることで、話者と相手との関係性が格段に明快になるのである。
栗田勇訳は翻訳文のポエジーを重視するあまり、注意深く読まないと関係性の認識が不明瞭になってしまうのである。