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『マゾッホとサド』 ジル・ドゥルーズ著 蓮實重彦訳

その1

今さら、この本を読んでサドとマゾッホは異なるなどと教えられても、ああ、そうですか、という感想しかない。一度でもサドとマゾッホの小説を読めば、別に精神分析とか難しいことを言わなくても、両者がまったく別物であることは明らかである。
ドゥルーズは一体何を言いたいのか。ねらいはどこにあるのか。まさかサドとマゾッホの相違を指摘することにあるのではあるまい。
ドゥルーズがサドの論理が暴力であるというとき、それはサド的論理に暴力性が含まれるということではない。一般に論理なるものが暴力なのだ。
例えば数学的論理の場合、およそ何らかの集合を対象とするならば、そこには対象を対象としてみる超越論的主観による選別と排除による否定がある。ただ、この主観は日常的主観よりも純粋なので、あたかも中立客観であるように見えるだけだ。
すると対象は自己と異なるのだから、この超越論的主観は対象が滅ぶことについて何の痛痒も抱かない。抽象空間の中で遊んでいる限り人畜無害であるが、もし必要が生じればためらうことなく対象を消去するであろう。米国では数学者が軍人よりも尊敬されている。
理性に殺人の可能性が内在しているのは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに理性による回答が存在しないことを思えば明らかである。回答らしき代物はすべて平和な法治国家の権力に守られた慰めでしかない。この問いに回答があるとすれば、対象を否定せず共にありたいという感情的理由にしかない。
ドゥルーズによるとサドは破壊衝動にすぎない個人的性向を理性による哲学的議論を通じて「死の本能」へ高めるのである。サドの小説においては破壊衝動のポルノと哲学的議論がセットになっている。
これに対しマゾッホの小説にはポルノはない。ドゥルーズの指摘するとおり「小ロシアのチェーホフ」である。全体が上品であり、『毛皮を着たヴィーナス』は題名どおり裸ではない。私も読んだが、最初の友人同士の会話はトーマス・マンの『転落』、馬車の場面などはプルーストのスワンを思わせる。文科省推薦図書にしてもよいぐらいだ。
ドゥルーズはサドの否定に対し、マゾッホの否認を対置しているが、これは単に両者の相違を指摘しているのではなく、なぜサドとマゾッホが相違するのか、その理由を説明しているのである。
サドの否定が破壊衝動から超越論的主観による否定へ高まり、ポルノと哲学的議論の混淆に帰結することは明瞭である。マゾッホの否認はなぜポルノに帰結しないのか。現実を否認することは、現実を否定して破壊することではなく、「慎みをもって現実を越え」ることである。すると鞭打ちと宙吊りという猥褻な現実自体が否認され未決定の状態になる。
かくしてマゾヒストは「新たなる無性的人間」へと一体化するのだ。
明らかにドゥルーズマゾッホを通じて新たなるポスト現象学的な主体を模索している。サドは比較のための方便であり、あてにしていないようだ。この本を単なるサドとマゾッホの相違についての解説とみるならば、それは誤読とは言えないまでも、すくなくともドゥルーズのねらいを把握しそこねている。
私が関心のあるのはこの新たなる主体である。私の推測では、否認とは超越論的主観をやり過ごす方法であり、宙吊りの未決定によって対象を対象として把握しない幻想的方法であると思う。新たなる主体とは、人を殺さない主体である。

 

その2

難解な本を読む喜びは、異質な思考に触れることであり、ものごとを違った眼でみることができるようになることであるが、反面、それが異質であると分かるためには、快い自己確認の安楽を放棄しなければならない。頭が痛くなるのはそのためだろう。
ドゥルーズによるフロイトマゾヒズム批判は手強いのでパスしたいところだが、避けてとおるといつまでたっても同質の思考にとどまるしかない。
第5章「父親と母親」においてドゥルーズフロイトマゾヒズムもそれなりの世界観であることを評価したうえで批判している。フロイトマゾヒズムを自分に対するサディズムとして捉えるのは単純すぎる。フロイトマゾヒズムをもっと深くエディプスコンプレックスの一つの解決手段として捉えている。つまり父親を第一の自然(攻撃と破壊)に属するものとし、母親を第二の自然(創造と保存と再生産)に属するものとして、子供は母親の座に位置して父親から愛されることにより受動的にエディプスコンプレックスを解決するが、そのため父親の第二の自然に対する破壊衝動を受けるところにマゾヒズムを見出している。
これに対しドゥルーズの解するマゾヒズム父親の否認にある。父親の機能を三人の女性像に分割して象徴界を成立させ単性生殖などと不気味なことを言うのである。そして象徴界における否認対象は、現実界において幻想となって現れるというラカンの説を援用して、『毛皮を着たヴィーナス』の最後に出てくるギリシャ人の男性を解読するのである。
主人公のマゾヒストは願望対象の女性に裏切られて最後に女性の愛人のギリシャ人から鞭打たれることになるのだが、その時、主人公はマゾヒズムを放棄する。ドゥルーズはこのギリシャ人が象徴界において否認した父親現実界での幻想であるとしている。
このように書いてあることを読めば読めるのだが、その意味はさっぱり分からない。ただ一つ言えるのはドゥルーズフロイトの描く人間像とはまったく異なる未聞の人間像を模索しているようだ。父親の否認とか単性生殖とか、私には未だドゥルーズがマゾヒストを通じて見ている世界がよく見えない。
この訳の分からないもどかしさは、第8章「契約から儀式へ」において驚くべき展開を示す。これを言いたいために、独自のマゾヒズム観を打ち出しているのではないかとさえ思える。ドゥルーズの主張はオカルト的であるが、カインとキリストは類似しているというのである。
カインは人類初の殺人者であるが、誕生のときは母親から祝福されていた。
彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た。」旧約聖書創世記第1章)
しかしカインは父親である神とアベルとのつながりを否認し、アベルを殺害したため、神から額に印をつけられた。
以上が旧約聖書であるが、ドゥルーズユングのカインコンプレックス(兄弟憎悪)とは異なり、カインの父親である神の否認と母親との結びつきを強調し、エディプスコンプレックスの変形とみているようだ。
これがキリストと類似しているのは、キリストも十字架上において父親である神から離脱し、母親のマリアとの結びつきにより、復活するからである。
ドゥルーズは言明しないが、確かに新約聖書においてキリストの父親ヨセフの影は薄い。息子の刑死に立ち会ってもいない。立ち会ったのは母親のマリアのみである。調べてみると、すべての福音書でヨセフが何時死んだか書かれていないが、伝承ではイエスの公生活の前に死んだという説があるようだ。
そして、マリアの処女懐胎は、父親を必要としないということで、キリストの復活の先取りであるという。またドゥルーズはカインの額の印とキリストの十字架は同型ではないかと推測している。
ドゥルーズによると、この類似に気づいていたのは『デミアン』の著者ヘッセであるというから驚く。
こうしてみるとマゾヒストが最終的にねらっているのは、父親の否認による単性生殖であり、無性的人間としてのキリストの復活であるということになる。

 

その3

この200頁に満たない薄い本を3回も分けて紹介するのは、それだけ凝縮された内容だからである。第9章「精神分析学」はさすがドゥルーズというか、精神分析の最も謎めいている土俵に切り込んでいることが分かった。それにしてもたった9頁の章がおそろしく難解である。翻訳者は三島賞を受賞されて不機嫌な方だから名訳のはずである。こういう文章は急いで読んでもはじまらない。
「マゾヒスムは、反転されたものの性的素質の再強化よりも、反転によって定義されることははるかに少ない」(131頁)
この文章はマゾヒスムは反転によっても定義されるが、性的素質の再強化の方がより決め手になると言っている。つまりドゥルーズはマゾヒスムが性的(性的素質の再強化)であることを認めており、性的であることがマゾヒスムにとってより重要な決め手だと言っているのである。それではサディスムの反転だけでなぜマゾヒスムを説明できないのか?
フロイトによると父親と母親に向けられたリビドーが愛を失う不安と罪の意識の二つの原因により、自分へ反転するという。しかし反転することによって性的目的が放棄されるので、形成されるのはマゾヒスムではなく、超自我あるいは道徳意識ということになる。
だがマゾヒスムは罪の意識でなく、罰されたい欲望であるから、反転のみでは形成されないことになる。反転によって喪失した性的素質が再強化される必要があるということである。これがマゾヒスムにおける性欲の要請である。
もう一つの理由はマゾヒスムにはサディスムに還元されない固有の存在があるということである。ドゥルーズ「マゾヒストの苦痛と性的快楽とのあいだには、彼が具体的に生きた一つの絆としての素材的な基礎の存在がなければならぬ」(131頁)と言っているのはそういう意味であろう。フロイトもまたこの「素材的な基礎」について限界を凌駕する興奮がエロス的なものになるという仮説を立てているが、ドゥルーズはこの仮説によって、マゾヒスムのサディスムへの還元を拒否するのである。フロイトもまた自分の立てた仮説により反転したサディスムというマゾヒスム観に満足していないのである。
さらに、再帰と受動の違いがある。つまり自我へ向かう反転は、再帰として自分で自分を罰することになるが、マゾヒスムには誰かに罰せられたいという受動性があり、主体の他に第三者の存在が必要となる。ドゥルーズはそのことが最初の理由である性的素質の再強化とつながることを指摘している。つまり第三者がいなければ性的興奮はないのだ。自分で自分を罰することは卑猥ではない。
以上からドゥルーズはサディスムの反転によるマゾヒスムへの推移を認めず、両者は構造的に分裂しているとするのである。
だが、これは前期フロイトへの批判ではないか。フロイトこそが死の欲動によって原初的マゾヒスムとしてサディスムとの非還元性を見出したのではないかという疑問がある。
しかしフロイトはこの仮説以後も、反転したサディスムというマゾヒスム概念も捨ててはいないのである。性的マゾヒスム、女性的マゾヒスム、道徳マゾヒスムなどマゾヒスム自体を階層的にとらえているので、各々の生成機序が異なるのだろうが明快ではない。いずれにせよ、フロイトは批判されてもしかたのない曖昧さがあるのだが、これも暗闇で手探りしているので大目にみなければならないのかもしれない。
これに比べると、ドゥルーズはマゾヒスムとサディスムとの構造的差異を強調するが、マゾヒスム自体の内面的差異については言及していない。
ただ興味深いのは構造的差異として、サディスムの擬マゾヒスムとマゾヒスムの擬サディスムを異質なものとして対比させていることである。
ドゥルーズによるとサディストは自我を失った超自我そのものであり、自分の自我も犠牲者として見ているとのことであり、これが擬マゾヒスムである。するとエロス性がなくなり、超自我の道徳的世界のみのような気がするが、超自我の攻撃的破壊が反復されることで飛躍的に快楽が高まる一瞬が最後に訪れるというのである。タナトスによる反復に対して、エロスが事後的に追随するということであるが、なぜそうなるのか説明していない。
ただ、サディストは快楽のために拷問するのではなく、拷問の反復によって新たな快楽を生み出すと説明している。
これに対しマゾヒスムは超自我が崩壊した自我であり、たとえ自分を鞭打つ女性を超自我としていても、それは幻想として否認されているという。真の(変な言い方だが、要するにマゾッホの考える)マゾヒストは多少傷ついても決して死なないのである。
するとマゾヒストの快楽はどこにあるのかという疑問が生じるが、ドゥルーズによると、それは懲罰による新たな復活にあるという。ドゥルーズマゾッホの全作品を読み込んだうえで、そこに一貫して「あなたは男ではないのだから私が男にしてさしあげます」という共通の主題があるという。超自我が崩壊し母親からの懲罰という協力により、理想的自我が再生するというわけである。
またもっと直接的にマゾッホの書簡から次のように引用している。
キリストとは、神の子としてではなく、新たな<人間>、つまり廃棄された父親との類似としてある、性的な愛をいだかず、特性もなく、祖国もなく、いがみあいもせずに、仕事もないまま十字架についた<人間>なのである。(126頁)
このことで思い出すのは、昔、ある神父が「イエスの貧民へのまなざしは、聖母マリアから受け継いだのかもしれない」と言っていたことである。確かに父(超自我)のヨセフは出番がないようだ。