『フランドルへの道』 クロード・シモン著 平岡篤頼訳

クロード・シモンはずっと気になっていた作家なのだが、どうしてなのか分からず、なにしろ、あのクレジオが自分よりも上だといい、蓮實重彦がそれは当たり前だというほどの作家であるから、きっと凄いに違いない、というかあまり考えずに書いているようにしか思えないのだが、ヘタウマというわけでもなかろうし、ウマといえばこの小説は馬の話が多いのはやはり第一次大戦なのだな、そうだ、いや、フランスがこんな風に慌てて逃げまくるのは第二次大戦なのかと考え直してみるのだが、いずれにせよ、解説をみて読むような小説でもあるはずもなく、あまり細かいことにこだわっても仕方のない文章だから、それにしても読んだはしから細部がどんどん記憶から消えてしまうのに、なぜかいつのまにか細部がつきまとってくるようになるのはどういうわけだろう、やはりこれは凄いのかもしれないが、どうして行換えしないのか、読みにくくて仕方がない、ここはいささか無粋であるが、佐藤優のように物差しを当てながら読むしかないのだが、この小説をそんな風にして読むのがふさわしいのかどうかはさておき、眠くなるよりましだろうといいわけしつつ、「大砲弾丸でも動かないとはこのことでこんなふうにぴったり適合する表現というものがままあるものだ」という文章に大笑いしてすっかりシモンのファンになりそうになったのだが、考え直してみると確か昔もそう思ったはずで、誰でも真似のできそうな書き方を真似して書いているうちに、こりゃ、何でも書けそうだ、論理的なことでもちょっとエッチなことでも何だって抑制もなく際限もなく自由自在に書けるぞと嬉しく思ったものだが、やはりシモンの最大の謎は、これほど自由な形式なのに、むしろ不自由というか、書く必要のなさそうな細かいことを書き続けていることで、ただ頁を埋めるだけの書き物になんか意味があるかという根源的な疑問が叢雲のようにわいてくるのはどうしようもなく、確かに自分とシモンは異なるという当たり前のことに気づいてももう遅すぎるのであり、アチラさんはもうそりゃ凄い経験をされたので、コチラのように何もかも対岸の火事のようにヌクヌク、ヌクヌクッと生きてきたわけではございませんで、そう言えば戦争どころか、もっと個人的なことでさえ、おのれは戦いを避けて生きてきたななどと遅すぎる述懐をしても仕方がないということは、この小説が感想を拒否しているということにほかならず、あれは面白かったぞ、などとは絶対言えないように書いてあるのであり、なにしろ言葉で戦争を継続しているようなもので、何かを伝えようなどいう気はなく、やむにやまれぬ言葉の群れが勝手に続くだけで、それにしても夜のひそかな闇の中でただ一人、一行一行物差しをあてて一字一句のがさずに、あたかも幼児のように無心に文字を追っていくうちに、読んだともいえるし何も読めていない気もする、とはいえ確かに言えることは、途方もない読書をしたなという実感だけである。