読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『テクストの快楽』 ロラン・バルト著 沢崎浩平訳

標題からは読書の楽しみぐらいしか思い浮かばないのだが、そんなことであれば、別に言われなくてもよく分かっているので読む必要はないだろう。
著者によると快楽・悦楽・退屈の三つの概念はそれほど厳密ではないものの、一応、忘我を基準として分類されているようだ。つまり悦楽とは忘我であり、自己を失わないのが快楽であり、快楽の側から悦楽を眺めるのが退屈である。
蓮實重彦によると快楽が古典文学に、悦楽が現代文学に対応しているということだ。だが、古典文学と現代文学との関係を連続としてみることも断絶としてみることも可能であるように、快楽と悦楽との違いは曖昧である。
それにしても著者が「快楽」という言葉で何を示そうとしているのかよく分からないのだが、それは77頁あたりから「禁欲」の反語として明瞭になってくる。
つまり禁欲的な言語活動とは、権力の保護のもとに生まれ、広まるのであり、繰り返しの凝着した言語活動である。その例として、学校、スポーツ、広告、量産作品、シャンソン、ニュースがあげられている。これらは小心な繰り返しであり、表面的には新しくみえても、いつも同じ意味しかない。
したがってその反対である快楽・悦楽とは、新奇性であり、例外であり、規則でなければなんでもいい、ということになる。厳密な繰り返しであってもよい。偏執的なリズム、念仏などは、繰り返しの過剰であり、記号内容のゼロに到ることであり、繰り返し自体が悦楽を生むことになる。このとき、単語は輝き、痛快なものとなる。
したがって快楽は締め出されている。「快楽の観念はもう誰をも喜ばせないようだ。われわれの社会は平穏であると同時に、暴力的なのだ。いずれにせよ、冷感症なのである。」
次の引用文は、一種の反政治的なアジテーションのように思われる。

あらゆる悦楽、《生活》の悦楽、テクストの悦楽の報告が、最も個人的な仕方で、編まれ、織られているような、一つの同じ追想が読書と事件とを語り得るような本の(テクスト)の構想。(111頁)
誰でもいい、どの階級、どのグループに属していてもいい、文化や言語活動を特別扱いにせず、徹底的に(あらゆる意味で、完全に、根柢的に)、消費者の快楽に基づいた美学(この語が余り安っぽくなっていないとして)を想像すること。(112頁)

こうしてみると、バルトはテクストの理論がもう嫌で嫌でたまらなくなったのに違いない。
「われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるのであろう」
テクストの快楽は、テクストが真実というモラルに戻るのを妨げることができる。それがなければテクストの理論はまた中心のある体系に、意味の哲学に戻ってしまうのである。