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『共同幻想論』 吉本隆明著

正直に言うと、私はこの本が未だによく分からないのだが、その理由は、吉本が一体どこへ引っ張って行こうとしているのか先が見えないことにある。その他にも用語を統一しないことや、ひらがなを多用する独特の癖や、過度にポレミックなところも気に障るのである。
この本はツッコミどころ満載であり、フロイトヘーゲルハイデッガー等々の引用についての著者の見解はまったく説得的ではない。あまりにも著者の主張に引き寄せ過ぎており、まともな研究とは見なされないであろう。
ただ、時代の差を雰囲気として愉しむ余裕をもって読み進めると、吉本が一貫して告発している事柄が何であるかが見えてくる。
それは、論理水準の差異についてのある種の盲目性である。つまり観念とか精神について、吉本以外の思想家はすべてそれらを単一で均質な世界として把握しているのだが、吉本だけがその世界を複数の異なった世界として捉えているということである。
吉本が観念とか精神という言葉を避けて、幻想という言葉を使用した理由がそこにある。共同幻想・対幻想・自己幻想の三分類は、今では当たり前過ぎて驚きがないが、初心にかえってよく考えてみると、その思想の特異性が分かる。
吉本はここで重要な仮説を提示しているのだが、それを明確に表立って主張しないのである。それは幻想が三つに分類される理由が、共同体・家族・個人の利害を反映しているという仮説である。
吉本は『共同幻想論』において、遠野物語を素材としてその仮説を暗示するのだが、入眠幻覚とか憑依現象などの雑多な説明が多いので、遠野物語と同じように茫洋としている。
ESPや大岡昇平への言及など脱線としか思えない。夾雑物をカッコに入れて吉本のこの仮説を抽出すると、それはわずか数箇所しかなく、しかも曖昧である。引用しよう。
「個体の入眠幻覚が、伝承的な共同幻想に憑くという位相で語られており、したがって地上的利害を象徴するものとなっていない」(憑人論)
共同幻想に集中同化させる能力が、職業として分化し、したがって村落の地上的利害の問題と密着してあらわれている」(巫覡論)
「男女の対幻想の共同性を本質とする<家>の地上的利害は、共同幻想を本質とする村落共同体の地上的利害といかに、いかなる位相でむすびついたり、矛盾したり、対立したりするか、という問題をこの種の伝承的動物が女に化ける民譚から読みとるべきである」
(巫覡論)
この最後の引用が一番明快だが、なぜか吉本は地上的利害と幻想との関係をほのめかすだけである。しかし、よく考えてみると、幻想が三つに分類される根拠は、この地上的利害との関係にしかないはずである。
この本は、柳田やフロイトやその亜流達の方法論に対する吉本の批判に満ちているが、それらの批判はすべて吉本の独断的な見解、すなわち幻想が三つの領域に分離しうることと、各領域の論理水準に差異があるという見解に帰着するのである。
したがって、吉本はその独断的な見解の根拠を明示する必要があるのだが、あたかも話のついでのように地上的利害に言及するだけなのである。
もちろん史的唯物論は理論的仮説であり、事実による証明は不可能である。
したがって現実を理論仮説に基づいてうまく説明できれば、それが証明になるのだが、おそらく遠野物語にはこの仮説を証明する十分な素材がないのであろう。
吉本はそこのところを、共同体にとって余所者でありながら経済的に富裕な家が憑き筋になる傾向がある、などと可能な限り分析しているのだが、どこまで裏付け資料があるのか明示されていないので十分な論証ではない。
しかし、課題が何であるかは十分に示されていると思う。この本を幻想の内的ドラマとして読み解くことに終始するならば、それは誤読である。
これは史的唯物論の新しい革命的な理論なのである。