『経済数学の直観的方法 確率・統計編』 長沼伸一郎著(その2)

前回述べたように著者は非常に大事なことを指摘している。ブラウン運動において時間と共にボラティリティが拡大するのは、時間の性質によるのではないということである。
あくまで時間と共にジグザグ回数が増えることがボラティリティ拡大の原因である。
この前提がないとインクは広がらないのである。
時間と共に分岐回数が増え分散が大きくなっていく。これをどうイメージするか。
著者は二種類のゲームで説明している。一つは普通のコイン・トスで表が出たら+1、裏が出たら-1となるのだが、回数を増やしていくと大数の法則で得点は0に近づく。
もう一つは絶対値ゲームである。例えば10回1セットを交互にふって合計値の絶対値を各々の得点とするゲームである。これなら1セットが+3、-2などの値を取り得るが、得点はそれぞれ3、2となり、得点数が多い方を勝者とするのである。つまりボラティリティが大きい方が勝つというわけである。この場合も絶対値をはずして全体を集計すると0に近づくが、1セット辺りの回数を増やすと逆に得点数が大きくなっていくことになる。
二人で勝負するとどちらもプラスになるが、得点の大小を比較して小さい得点の者が支払うというルールにすれば、ゲームとして成り立つと思う。金融工学ボラティリティのゲームであることがこれでイメージできる。リスクヘッジして絶対値ゲームになるように工夫すれば、分散の大きい方が勝者になるわけだ。(もちろんフリーランチは無裁定価格理論によりありえないから、予想された分散によって拡大すると計算された利益がその金融資産の価格になる)
ボラティリティ\sqrt{n}に比例して大きくなることも絶対値ゲームで明快になる。
ウィーナー過程においてボラティリティ\sqrt{t}に比例して拡大するというのは、時間が原因ではなく、例えば株取引回数(n回)が時間と共に増えるという前提によるものだということも明快になる。
著者はブラックショールズ理論が無裁定価格を前提とするオプション契約の価格付けの理論であることを度外視して、ボラティリティ変動だけで必ず利益が出るような説明をしている。これは奇異に感じるのだが、著者のように大きな視点でブラックショールズを評価する場合には、金融取引以外にも類推できるようにボラティリティ変動のみで説明した方が分かり易いのかもしれない。例えば著者の説明によると、農業は天候によって利益が左右されるが、貿易は天候の良い国から農産物を安く買って天候の悪い国へ高く売れば利益が得られることになる。さらに全世界の天候が悪い場合でも、豊作と不作の度合いが少しでも異なっていれば、その価格差で利益を得ることができることになり、商業国が農業国を圧倒した歴史的理由がそこにあると推定している。
著者の描いている航空機パーツ債券とジュラルミン債券のグラフも、要するに裁定取引の一例なのだが、そういう裁定機会は瞬時になくなるのが通常ではないかと思われる。
しかしそれは著者の言うように、地域価格差を利益の源泉とする貿易が貿易の発達自体によって価格差がなくなっていくのと同じことかもしれない。昔の時代はそれが緩やかに進むのだが、現代では情報や電子取引の発達で裁定機会が瞬時になくなってしまうのであろう。

『上級編』
確率微分方程式とは何か。
確率微分方程式の例は\mathrm{d}x=A_1\mathrm{d}t+B_1\mathrm{d}wであるが、これは初級編のガウスの頭の中の①と②に相当する。①がA_1\mathrm{d}tであり、②がB_1\mathrm{d}wである。
つまり各分岐点により枝分かれしていく多段式構造の中の一つの分岐点を示したものである。それにトレンドとしてA_1\mathrm{d}tが加わったものに過ぎない。A_1\mathrm{d}tがプラスかマイナスかで、枝分かれして二項分布から正規分布へ広がっていく分岐の流れ全体がA_1\mathrm{d}tにより上下に偏るということである。したがってこの式により価格予測モデルが可能になる。
だがこれは原資産(例えば株価)の確率微分方程式であって派生証券の式ではない。
仮に派生証券の価格をYとし原資産価格をXとして、Y=F(X)とすると、派生証券の確率微分方程式価格を求めることは、\mathrm{d}y=F(\mathrm{d}x)を求めることを意味する。
すると\mathrm{d}y=F(A_1\mathrm{d}t+B_1\mathrm{d}w)となる。
この式が原資産価格と同様に、例えば\mathrm{d}y=A_2\mathrm{d}t+B_2\mathrm{d}w のような形になれば、つまりドリフト項と確率項が分離して求められれば価格予測が容易になるのだが、そう簡単ではなかった。伊藤のレンマが重要なのは、それを使うことにより\mathrm{d}y=A_2\mathrm{d}t+B_2\mathrm{d}wの形にできたということである。これにより派生証券の価格予測モデルが可能となり、オプション評価が可能となる。
本書はその導出過程を詳細に説明しているが、結論だけ示すと、派生証券のトレンド項のA_2B_2は次のようになる。
A_2=\large \frac{\mathrm{d}F}{\mathrm{d}x}\normalsize・A_1+\large \frac{1}{2}・\frac{\mathrm{d}^2F}{\mathrm{d}x^2}\normalsize・B_1^2
B_2=\large\frac{\mathrm{d}F}{\mathrm{d}x}\normalsize・B_1
この伊藤のレンマがどれほど重要かは、Y=F(X)からさらにZ=F(Y)へと拡張しても適用できること、A_1が定数ではなく関数の場合にも使えること、またB_2により拡散が大きくなるのか小さくなるのかも分かることなどから、ファイナンスだけでなく、確率統計論の世界でも画期的であり、著者によるとガウス正規分布に次ぐ発見ということである。
無リスクポートフォリオとは何か。
二つの資産価格がY=F(X)の関係になっていれば何でも良いのだが、派生証券が明らかに原資産Xと連動しているので、派生証券と原資産の組合せで無リスクとする方法が、この伊藤のレンマで得られるのである。
上の説明から二つの資産のボラティリティB_1\mathrm{d}wB_2\mathrm{d}wなので、それらを相殺させるように組み合わせばリスクを消すことができる。それは伊藤のレンマによりB_2=\large\frac{\mathrm{d}F}{\mathrm{d}x}\normalsize・B_1であるから、X資産を1単位売って、Y資産を\large\frac{\mathrm{d}F}{\mathrm{d}x}単位買えば無リスクとなる。この係数\large\frac{\mathrm{d}F}{\mathrm{d}x}が金融界ではデルタと呼ばれている。
著者はさらに伊藤のレンマに関して面白い指摘をしている。つまり文系の人間は無リスクということで係数Bの変換に関心があるのだが、理系の人間は逆に物理で最も欲しい情報として世界がどう動いていくかに関心があるため係数Aの変換に関心があるというのである。
ルべーグ積分がなぜ必要なのか。
ただ以上の説明は著者が述べているように\mathrm{d}wについて微分可能という前提があるのだが、ジグザグ運動は不連続だから微分不可能である。
この論理の穴を埋めるため、確率微分方程式ではルべーグ積分が必要になり、話が難しくなるのである。
ファイナンスに関心のある人なら一応そこまでは知っているであろうが、私などは、「どうせ微分可能なことが分かっているのなら、それでいいんじゃない」と思ってしまうのである。だから当面知りたいのは、わざわざ苦労してルべーグ積分や測度論を理解して、何が嬉しいのかということである。メリットがはっきりしていれば努力のしがいもある。
著者の見解は、実務としてオプション価格を算定するためだけなら、ルべーグ積分は不要であるとのことだ。ただ、経済の世界はすべて離散量であって、通常のナントカ関数で議論しているのはすべてアナログ近似しているに過ぎないことに留意するなら、経済学においてこそルべーグ積分の考え方が不可欠ということになる。
例えば期待値の計算にしてもグラフにするとX軸を当選確率、Y軸を賞金とすると、期待値はグラフの面積になるのだが、よく考えてみると当選確率が横軸とは面妖である。それも有限区分で離散和Σなら理解できるが、無限区分して積分\intで期待値を求めることには違和感がある。確率の無限区分\mathrm{d}pX軸とはどういう意味なのか?
このときルべーグ積分の考え方を知っていれば違和感なく受け入れられることになる。
つまりリーマン積分\mathrm{d}xに対する\mathrm{d}yを合計するのだが、この場合xが連続量であるという前提がある。ルベーグ積分においては\mathrm{d}xが何でも良い、ただ積分に必要な要件を満たしておれば良いという発想である。その要件とは\mathrm{d}x+\mathrm{d}x=2\mathrm{d}xというように加法性があるということだが、\mathrm{d}pの区分も\mathrm{d}p+\mathrm{d}p=2\mathrm{d}pであれば、別に数字でなくても積分できるということである。メッシュに区分して重複せずに重なること、例えば\mathrm{d}p+\mathrm{d}p1.5\mathrm{d}pになったりしなければ積分できるということである。

\mathrm{d}x+\mathrm{d}x=2\mathrm{d}xは不正確であり比喩である。\mathrm{d}xは無限小なのだから、\Delta x+\Delta x=2\Delta xである)
つまり微小区間の集合に完全加法性(区間が互いに素で重ならないこと)があれば、どんな抽象的なもの(確率、取引、各種イベント、有理数無理数か(ディリクレ関数)など)でも微小区間\mathrm{d}xの代替になるということである。
この微小区間を仮にm(A_i)とすると、\sum(A_i)=m(\cup A_i)   i=1,2,3,... という要件が満たされていれば積分可能になる。このm(A)が測度である。先程の\mathrm{d}pもこの要件を満たしているから積分可能なのである。つまり測度とは\mathrm{d}xの替品というイメージである。
私は著者の全著作を読んできたが、読むたびに驚きを禁じ得ない。今回もまたルベーグ積分や測度概念について、これほど読んで分かる説明は初めてである。厳密に知る前に一読しておくと有効な指針となる。著者には感謝している。関心のある人は絶対に読むべき本である。

このブログで様々な読書感想を書いてきたが、私は今回のこの本に大きな感動をおぼえた。
ルベーグ積分が何の役に立つのかという疑問は既存の理論を眺めていても答はない。せいぜい金融理論の基礎付けでしかない。それだけのために勉強するのはあまりにも徒労だ。
だがルベーグ積分には恐るべき可能性が潜んでいるようだ。微小区間\Delta xが連続量でなくても完全加法性があれば積分可能であるということは、これまで計量不可能であると思われていた対象にも数学が適用できる可能性を示している。
だから積分可能性の条件を正確に理解する必要がある。それを武器にすれば新しい理論が生まれるかもしれない。