『原子心母』 椹木野衣著

この本はピンクフロイドではなく現代芸術についての論考であるが、ここまで分かり易く説明している本は珍しい。
まず著者は印象派の説明から始めているが、印象派における眼の重要性を強調している。それは図式的に言えば外面世界を対象とする古典芸術から内面世界を対象とする現代芸術への通過点として眼が位置づけられるということであり、映画『アンダルシアの犬』において眼が切り裂かれる場面を一つの象徴として捉えているところが興味深い。つまりシュルレアリズムは印象派の眼から内面世界へ向かうということである。
したがって印象派の筆触分割という技法は、単なる光の明るさの獲得ではなく、客観的対象物としての絵具の混合による色彩から、眼による光の混合への移行であるとしている。
しかし、現代芸術において対象が眼を通過してさらに内面世界へ移行すると、蛍光塗料のような光を発するものが素材として使用されるようになったという。
さらに外面と内面という二元分割自体が拒否されるようになると、日常と非日常という分割も否定され、芸術作品という特別な対象もなくなり、便器が芸術作品になったりする。
芸術対象が内面へ移行することにより、形態も色彩もイメージも重要ではなくなるというのである。
しかし著者は内面の心の世界を描くことが現代芸術ではないという。著者は幻覚剤を使用したアートを単なるイメージに過ぎないとして否定している。夢のイメージは夢ではないのであり、眼が醒めたときの離散的イメージの編集における論理矛盾こそが夢の正体であるという。
同様に、映画もまた、幻想的イメージを描いたからといって幻想になるわけではない。ドキュメンタリー映画も離散的イメージを縦横に編集しており、非現実的な時間を創出している点で幻想映画と同じであるとのことである。こういう観点からすると、ヴィム・ヴェンダースの『夢の涯てまでも』も黒澤明の『夢』も共に夢のイメージであって、夢そのものではないことになる。これらの映画に夢に近いものがあるとすれば、それはフィルムを編集する方法にあり、イメージとしては知覚されないもの、むしろ各コマのイメージの非現実的な分離的共存にある。
また、記憶についても、連続時間をそのまま記憶していることなどありえず、ただ離散的記憶を事後的に編集しているに過ぎないことをベルグソンを援用して説明している。
ベルグソンは心が空間をもたないことを主張しているが、いくらベルグソンドゥルーズがそう主張していても、やはり脳に意識があるということは否定できないのではないか。
この点について、著者は面白い思考実験により巧みに説明している。
著者によると、脳に意識があるという思い込みは、眼の位置が脳に近いからだという。
ここで、仮に手のひらに眼があるとすると、眼は自分の頭をみて、心が遠隔対象の頭にあるとは思わず、手のひらに心があると思うだろうというのである。
この思考実験は突飛に思われるかもしれないが、遠隔操作ロボットを引き合いに出されると現実味を帯びてくる。仮想現実が進化していくと、たとえ「我思うゆえに我あり」といってみても、その我がどこにあるのか不確定になる可能性がある。
哲学ではなく、こういう方法で説明されると、ベルグソンの説も本気で考えてみる必要があるように思われる。
このように著者が主張するとおり夢・記憶・映画が離散的イメージの事後的編集という点で共通しているとなると、実人生そのもの、世界それ自体も芸術となりうる。例えば記憶は過去そのものではなく、離散的記憶の編集による物語である。それを過去それ自体とするのは単なる思い込みに過ぎない。
それではなぜ、特定の者しか芸術家になれないのか? 著者は明言しないが、著者の論理をたどると、そこには覚醒ということがあるようだ。
つまり、離散的記憶や離散的イメージを連続的結合として捉えると、それは現実の連続時間と混同されるのである。あたかも映画のコマ送りが連続運動を生み出し、現実の似姿となるように。同様に離散的記憶をつなぎ合わせて連続した時間と取り違えると、画一的で平凡な人生の物語となる。これは芸術家ではない普通の人間が普通に行っている思い込みである。
現代の芸術家は、この離散的記憶や離散的イメージを分離的共存として捉えている。
著者によると、ポロックの絵は、イメージの連続的結合としてみると絵具の飛び散りでしかないが、イメージの分離的共存としてみると、個々の絵具の線の差異が非空間的持続を表すという。そしてそれは世界そのものの現実でもある。これが覚醒である。
プルーストの小説も、記憶の結合による過去のイメージではなく、記憶の分離的共存による過去の顕在化であり、ポロックの絵と同型である。個々の記憶が絵具のドリッピングであり、それぞれが異質なものの分離的共存であり、潜在的共存である。
以上、著者の論理をたどると必然的に次の結論が導き出される。真の芸術家は自分の人生を持たない。
このように、この本はベルグソンドゥルーズの思考と現代芸術を交差させており、類書にはない魅力がある。