『マネの絵画』 ミシェル・フーコー著 阿部崇訳

私は絵に関心はあるものの、見てもよく分からない。美術館へはたまに行くが、まあ、たいていはあまり時間をかけずに出てしまう。ダリの「ヴィーナスの夢」を見た時は、しばらく呆然としたが、それはあまりにもデカい絵でびっくりしたからである。
イヤホンで解説を聞くこともあるが、製作年代とかどうでもいいような情報で、絵を見る参考にならない。
もう少し絵の内容に踏み込んで、構図などの意味を説明してもらえれば随分絵の見方が変わるだろうと思うのだが、一つ一つの絵にそれほど時間がかけられないのだろう。
ならば、美術評論家の解説はどうかといえば、これも理屈っぽいものや、実感に訴えるものなど色々あるが、絵そのものに即した解説になっていない例が多い。
最たるものがフィリップ・ソレルスで、ベーコン、ピカソセザンヌなどについてワケの分からん解説をしている。好きな作家だから一応すべて読んだが、これだけは共感できなかった。ソレルス・ファンにはスマン。小林秀雄の『近代絵画』もなんだかなあ。
どこかに絵画の親切な解説者はいないものかと思っていたところ、まさかのフーコーである。『言葉と物』のベラスケスはちょっと難しすぎはしませんか、また同じ調子で頭の痛くなるような解説かも・・・と思っていたところ、豈図らんや、まるで美術館でフーコーがマネの絵を一枚一枚解説しているような感じで、読んで楽しい本である。
講義録音を元に作成されたもので、フーコーの謙虚で親しみやすい一面がうかがわれ、いつもの難解さはみられない。米国流のプレゼンテーションの技法どおり、冒頭で結論を要約し、それを三項目に敷衍して説明し、次にプロジェクターで絵を映しながら三項目を実地に確認していくというスタイルをとっていて、実に分かり易い。マネの絵の画像を参照しながら読んでいくと、一つ一つの説明に納得させられる。絵と解説がこれほど見事に融合し、絵を見ることの快楽をこれほど誠実に実証している本は初めてである。
冒頭の結論とは、マネは印象派の先駆者として知られているが、フーコーによると印象派だけでなく、現代芸術の先駆者でもあるということである。それは、絵画をオブジェにしたということである。
それまでの絵画は風景画にしても人物画にしても、絵画が置かれている空間(壁など)を無視して二次元の絵をあたかも三次元の空間であるかのように錯覚させることをねらっていたが、マネはそういう錯覚を打ち壊して絵画を物体のように提示したというのである。
フーコーはそのことを三つの視点で説明している。
一つは絵画が一枚のキャンバスであることを構図によって示したということである。
フ-コーはこのことが一挙に行われたのではなく、徐々にそういう方向へ向かったことをマネの絵を一つづつ辿って推移を検証していくのだが、奥行きを示す垂直線と水平線、空の一角、人物の足などを具体的に指し示しながら解説しているので、実に説得力がある。
確かに構図の類縁性や変化に傾向がみられ、マネが遠近法を意図的に破壊したことが示されている。複数の絵画を横断的に見ていくのであるが、こういう見方があったのかとゾクゾクさせられるのである。
二つ目は照明である。
伝統的な絵画は常に照明がどこに位置しているか絵の内部で明らかにしているが、マネの「笛を吹く少年」は笛の影によって光が絵の外から来ていることを示しているとフーコーは指摘している。つまりマネは絵の内部の光を取り除き、絵の外部の光に置き換えているというわけである。
有名な「草上の昼食」などは、私は裸の女性しか眼に入らないのだが、フーコーはこの絵を上半分と下半分に分け、それぞれ違う光が支配していることを鮮やかに指摘し、男性の中央の手がその内的差異を指し示し強調しているというのである。その親指と人差し指が光の方向を指している・・・何と素晴らしい説明だろう。
オランピア」この絵については、モデルであるティツィアーノの「ヴィーナス」と比較してどこがスキャンダラスなのかうまく説明している。ネタバレになるので詳説しないが、これも光が関係しているのである。
「バルコニー」については、マグリットによるこの絵のヴァリエーションを示して、三人の人物像が棺に置き換わっていることの意味を説明している。画家によるヴァリエーションは元になる絵の解釈であることが雄弁に示されている。
三つ目は鑑賞者の位置である。
フォリー・ベルジェールのバー」は鏡に映った後ろ姿が有名だが、別にそれは珍しい構図ではなく、アングルの「ドーソンヴィル伯爵夫人」と同じ構図だと指摘している。違いは背景がすべて鏡であること、映るはずのない人物(女性を見下ろしている男性)が鏡に映っていることなどである。また女性の後ろ姿は鏡が斜めでないと不可能だが、鏡の下枠はバーカウンターと平行になっているので構図として矛盾していることを指摘している。
これについてフーコーは古典的な絵は鑑賞者がその絵をどの位置で見ているかを明確に示しているのに対し、マネの絵は鑑賞者の位置に不確実性をもたらし、絵画自体がひとつの物理的なキャンバスとして現れ、鑑賞者は絵画に対して自由な位置を取ることができると説明し、これによりマネは「オブジェとしての絵画」を発明しつつあったと結論づけている。
この本を文章だけで読むとよく分からない。絵と比較して読んではじめてフーコーの言うことが的確であることが確認できる。そして、これほど的確に対象を把握しうる人なら、文献引用も確かであろうから、引用された箇所を飛ばし読みせずにフーコーの主張とよく比較して読む必要を感じた。フーコーは学問だけでなく芸術についても遊び方の達人である。
哲学というものが、もし生き方の指針になるとするなら、自己を滅却してひたすら対象に没入するこの鑑賞力を見習いたいと切に思う。