『西田幾多郎の憂鬱』 小林敏明著

私は他人の不幸話が好きではない。この本の前半は西田幾多郎の不幸話が続くので、それも半端でない不幸話だから、読んでいてだんだん痛くなってくる。さりげなく短く書いてあるので断定できないが、恐らく著者にも西田と同様の経験があるのであろう。
はじめのうちは伝記的事実の記述が続くので、通常の評伝形式と同様のユルい解説本かとあなどってしまうのだが、読んでいるうちに、著者が評伝形式そのものの革新を目指していることが分かってくる。
従来の評伝は伝記的事実と思想との関連を問うものであるが、うまくいった場合でも、せいぜい本人の思想を伝記的事実で確認するのが限界である。ところがこの本の場合は、そうした同一化ではなく、いたるところに差異を見出している。そしてそれらの差異により従来の西田哲学とは異なる像が結ばれるのである。
伝記的事実に潜む微妙な差異をかぎ出す著者の眼力は尋常ではない。例えば西田の短歌趣味に潜む差異として次の二首を指摘している。(この本ではもっと多く例示されているが、この二首に代表させる)
  妻も病み子ら亦病みて我宿は夏草のみぞ生ひ繁りぬる
  我が心深き底あり喜びも憂の波もとどかじと思ふ
どちらの歌も「技巧を施さない率直な歌」であるが、前首が時間的経過を歌っているのに対し、後首は現在の瞬間を歌っている。そして著者は西田の残した短歌を分析して、時間的経過が歌われている場合は悲哀の率直な表現であるが、現在の瞬間を歌う場合は内観をつきつめた思想的な歌であると分析している。
著者はそこで分析を止めているが、この着眼をさらにつきつめると、そもそも短歌という言語芸術がなぜ短文形式として成り立つのかという問いに導かれる。この問いは、日本の言語芸術の根源を問う大問題でありながら、従来から概ね日本語の韻律に根拠が求められている。しかし、日本語の韻律は短歌成立の必要条件であっても十分条件ではない。
短歌が短文形式をとらざるを得ない必然的理由は、著者が指摘するようにそれが現在を対象としているからではないか。短歌が歌っている内容はたとえ時間的流れがある場合でも体言止めや詠嘆の助動詞によって現在の心境に畳み込まれている。
「あしびきの山鳥の尾の・・・」の短歌における長い枕詞は、寝ている現在に執着し回想を拒否している点で思想詩に近いかもしれない。「敷島の大和心を・・・」の歌も現在に限りなく近い思想詩である。これに比べると「春すぎて・・・」の歌はたとえ香具山で体言止めされていても、現在の情景の中に時間的流れとしての情感が込められている。
そして世界でも珍しい短歌という言語芸術の存在は、日本人が万葉の時代からなぜ現在という瞬間の心境に執着してきたのか、というさらに根源的な問いにつながる。
そして短歌を純粋経験の歌ととらえると、西田哲学は奇異な体系ではなく、日本人の本質に触れるものかもしれない。本書からやや脱線したが、このようにあまり注目されない西田の短歌に潜む微妙な差異が、西田哲学と短歌について新たな視点を生み出すのである。
また地元の新聞で級友とともに「三横着者」と評されていた西田の反骨精神についても、著者は西田らが発行していた当時の雑誌にみられる多様な文体に着目し、それらが日本語の口語化の過程における混乱と独自の言語表現への戦いであったとしている。
日本語の悪文のように評されてきた西田の文体が、哲学の口語化であり、現代では古臭い表現であっても、当時は斬新でモダンな表現だったとしている。
この本は20章中、12章の「形なきものの形を書く」から伝記を離れ、西田哲学の内奥に踏み込んでいく。西田哲学は言葉にならない純粋経験や無の場所を言葉で説明しようとするのであるから、言語表現としては矛盾したものとならざるを得ないという指摘は従来から言われていたとおりであるが、著者はそこから出発してさらに独自の分析を行っている。
そして「場所の論理」と「超限集合論」が類似しているという中沢新一の説を「空想」として退け、「場所の論理」における「無」は無限ではなく、無限定であって、パラドックスによる「無」の解体はなく、むしろ「起源」を志向する無として両者の差異を捉えている。
西田幾多郎田辺元との論争は、結局のところ、言葉で表現不可能な事柄を探究する西田に対して、哲学はすべて言葉で表現可能なもののみを対象とするという田辺哲学との対立ということになる。土俵が異なるので論争は噛み合わないのである。
一見、田辺哲学の方が妥当と思われるのだが、言語表現可能なもののみしか対象としないのであれば別に哲学ではなくもよいような気がする。例えばラカンは無意識まで言語化されているという説なので言語しか認めていないように見えるが、にもかかわらずラカンもまた言語表現不可能な領域を思考していることは間違いない。
西田哲学は分かり難いのだが、アリストテレス論理学とは逆向きのベクトルというイメージで解読すれば、日本人にとっては古来の考え方をモデル化しており、親しみやすいものと思われる。「古池や・・・」の俳句や、「トンネルを抜けると・・・」などの言語表現は純粋経験や述語論理のよい例である。