『スピノザの方法』 國分功一郎著

スピノザに関心のある人なら主著『エチカ』を理解したいと思うであろう。
しかし本書は『エチカ』についてはさわりの部分(神の存在証明)に触れるだけで、その前段階である『知性改善論』と『デカルトの哲学原理』の検討に大半が費やされている。
スピノザの方法論を解明するという、あまりそそられないテーマなのだが、読み進むうちに謎解きのような面白さがあり、思考の確かな足どりが感じられる。
検討結果それ自体は、ジル・ドゥルーズが『スピノザ 実践の哲学』の「第四章『エチカ』主要概念集」においてわずか数頁で「方法」概念を解説している内容とほぼ同じである。
ただ、本書にあってドゥルーズにないもの、それはデカルトとの格闘である。
著者はデカルトスピノザの定義・定理を対照して、スピノザデカルトのどの定義を改変したのか、その理由がなぜなのかを詳細に分析している。
ドゥルーズの解説は既にスピノザ思想に悟達した人の解説であるが、読者である私はデカルト的世界観にどっぷりつかっているので、ドゥルーズスピノザと同じぐらい難解である。
この難解さは頭がよいとか悪いとか(それもあるが)によるものではなく、あの時代に世界が二つに分岐して、一方のデカルト的世界に私が住んでいるために、スピノザ的世界が見えないからではないかと思う。
だから、本書のように時間をかけてじっくりとデカルト的世界観との違いを比較対照することは意味のあることだ。するとスピノザよりもデカルトの方がかなり無理のある論理を展開しているように思えてくる。特にコギトから出発して神の存在を証明することには無理がある。
デカルト公理八は「より大きなことあるいはより困難なことをなしうるものは、また、より小なることあるいはより容易なこともなしうる」というものだが、スピノザはこの公理に反対している。つまり完全性とはそれ自体で絶対的なものであり、例えば「クモは人間が非常な困難をもってしかなしえないような網を容易に張る」からである。
だが公理八は、コギトを出発点として神の存在証明をするうえで絶対に必要な公理なのだ。
なぜなら自分を維持する力を持つものは、あらゆる属性を自らに与えることができるからである。つまり実体を維持することの方が、属性を与えることよりも困難だということである。そしてコギトは自分を維持する力を持たないが、何か他の者によって維持されている。ゆえに他者として神がそのような力をもつというわけである。
著者はこの証明について次のように適確に要約している。

デカルトにとって神は、自己を維持する力をもった人間のようなものである。「困難」と「容易」という語はそれを集約的に表している。(218頁)

スピノザは「困難」と「容易」という相対的基準ではなく、自己維持能力をもっているか否かという絶対的基準に訴えかける。つまり、諸存在者を、その本質が必然的存在を含んでいるか否かという1か0かのデジタルな二分法で割り切る。(219頁)

つまりコギトよりも完全な神が存在するのではない。それはコギトが想像した神に過ぎない。スピノザの神は、コギトと比較して完全なのではなく、ただそれ自体において絶対であり、完全でしかありえないのだ。この「ありえない」は不可能という意味ではなく、必然という意味である。「1か0かのデジタルな二分法」というのは、コギトは自分を維持する力を持たず、神は持つということである。ここに「困難」とか「容易」という観点を持ちこむことは、コギトの本質に何か相対的な存在を認めることになる。つまり「困難」である自己維持能力はないが、「容易」である思惟と延長を不完全に有する。それに対してより完全な神があるという構図になってしまうのだ。
定義・定理が重要であるのは、ほんの僅かな修正で体系がまったく別のものに変るからである。
以下、本書の感想である。
論理としてはスピノザの方が明瞭であるのに、なぜデカルトはこのような跛行的な論理を展開するのか。やはりデカルトにとってコギトの明証性が最も重要であり、そこから出発して神の観念を構築せざるを得ないからだろう。だからコギトと相対的な神になってしまうのではないか。だが、神の観念が不要になった現代では、コギトの明証性のみが普遍的に受け入れられるのであろう。
これに対しスピノザは「自己原因」と「無限の属性」によって神から出発している。よってスピノザにとってコギトは「非十全な観念」でしかない。外界から身体への影響の結果のみをみて原因を把握していない観念である。つまりコギトは表象であり想像にすぎない。
コギトから出発した神の観念は「想像の神」に過ぎないのである。
こうした観点からすると意識中心の哲学は「第一種の認識」であり、無意識を視野に入れた精神分析の方がコギトと非コギトとの共通概念として「第二種の認識」に近いのではないか。
スピノザ思想の逆説とは、無神論者こそが有神論者であり、世間でいう有神論者とは無神論者あるいは「想像の有神論者」であるとしか思えなくなってくることだ。
スピノザに言わせると命令と服従しか知らない人間は、それにふさわしい神を必要とするということであろう。
本書は「スピノザの方法」を解明するものだが、同時にデカルトとの比較により、スピノザ思想の特異性を解明する方法にもなっている。確かに『エチカ』についてはさわりの部分しか触れられていないが、本書は『エチカ』の発生論になっている。