『愛の渇き』 三島由紀夫著

近頃、あらためて三島由紀夫のありがたさが分かってきた。実際に他の小説家と比較してもダントツに面白いのである。この小説はどちらかといえば地味な作品なのだが、それでも面白い。
この小説が格段に出来が良いのでもあるまいが、久しぶりに文章を読む快楽を覚える。
トーリーとしてはシンドイ。ヴィスコンティ顔負けの頽廃の極みであり、腐臭が漂うような感情のドラマである。三島の小説はどれもストーリーが明快なのでそちらに眼を奪われてしまうのだが、むしろストーリーを重視せずに読んで見るのも一興ではないかと思う。
三島由紀夫は騒がしい作家である。
あまりにも雑念というか関連情報が多すぎて、冷静に作品を読むことが難しい。この小説についても、なぜ主人公は最後に三郎を殺したのか、読者としては気になるところである。考えあぐねたあげく作者の自死にまで思いが及ぶのである。
だが、三島は単に文章を書きたかっただけであるとしたらどうであろう。ただ書きたいために、口実として何らかのストーリーをでっち上げたのではないか。
これほど見事な文章を書く力は、すべての抵抗を排除して自分の本質を表現し産み出すのである。そこには「書く力」以外のいかなる理由もないのだ。いずれにせよ、流し読みするのはもったいない作品である。

石段の上の夜空には火の粉が舞い散り、喚声にまじって竹のはぜる音がしたたかに耳朶を搏った。古い杉の梢を無慚に照らしだして躍動している篝火の焔が眺められた。
新潮文庫版121頁)

「竹のはぜる音がしたたかに耳朶を搏った」という文はいかにも古風だが、世代的に違和感があるにも関わらず、読み手である私の耳にも竹の音がしっかり届いている。
「躍動している」のは「篝火の焔」だけだろうか、瞳の中の焔も躍動しているようだ。
この小説においては特に際立った描写ではないのだが、短い文章であるにもかかわらず光と音と熱と運動が一体となって異様な凝縮度が感じられる。
三島はあれだけ厖大な作品を書いたのだから、この程度の文章はサラサラと書き流したのだろう。それとも推敲に推敲を重ねたのだろうか。これぞ作家の文である。
「石段」「古い杉」「篝火」何の具体性もないこれらの言葉が、碁盤に置いた碁石のように的確である。つまり作中で舅と碁を打つ悦子の姿は、原稿用紙に言葉を配置している作者の姿でもある。
どうも私のこれまでの読み方は根本的に間違っていたようだ。
作家が書いた文章は、もっと本気で唯物論的に読まなければならない。三島由紀夫の小説からストーリーや雑念をカッコにいれて、あたかもロブ・グリエやクレジオの小説のように物と視線が交錯する快楽として読むという読み方があってもよいだろう。
小説をなぜ書くのか、いかにして書くのか、そのような問いは一切無用である。書く力がある者が書くのだ。
故に三島の自死は精神の受動であり、その作品は精神の能動である。両者にはいかなる関係もない。