『柄谷行人蓮實重彦全対話』

旅行には細切れの時間でも気軽に読める対談集がよかろうと思い選んだのだが、はじめの内はそれこそ両人が拒んでいるはずの文壇内部の内輪もめのような話が続き、近親憎悪のような感じがしてあまり面白くない。二人の間には何か共有された苛立ちというものがあり、それによって他の評論家や「紀要」に論文を書く類の専門研究者達を糞味噌にけなすのだが、その共有された苛立ちの正体が何であるかが分からないので読み手としては共感できないのである。
だが、200頁過ぎたあたりから、次第に苛立ちの正体が分かってくると俄然この対談集は面白くなってくる。
要約すること自体が共同体に容認されたイメージでしかないことを弁えつつ、あえて要約すれば、それは「表象批判」である。
このことから共有された苛立ちの正体がなぜ見えなかったのかも分かる。イメージ化を批判しているのだから、その正体が見えないのも道理である。
そして共有された苛立ちにも微妙な差異があることが分かる。蓮實重彦の苛立ちは表象を批判しながら、自らも言葉を使うものとして表象に囚われざるをえないという苛立ちであり、そのことが他の連中は分かっていないという不満になる。『夏目漱石論』は恥ずかしいまでに評論に似ているというように、批判している対象に似てしまうことへの苛立ちがある。「記号」という言葉には両義性があり、一方では表象そのものであるが、他方では力でもある。蓮實重彦の言う「記号」とは表層におけるそれ自体としての力であり、神秘でも隠されてもいないが、共同体に流通しているイメージを取り払わないと見えないものである。だがそれが見えた瞬間、流通するイメージに似てしまうという宿命がある。確かに『夏目漱石論』は「謎解き夏目漱石」としてキャッチーなタイトルをつけることも可能なのだ。
一方で柄谷行人は表象から観念へ移ることで、その種の自己批判的な苛立ちは見られない。
「観念」とは数学的定義のようにイメージではないのであり、現実に存在しないが無ではないものとして最初から表象の汚染を免れている。敷衍すれば受験問題などでは接点を通る接線などと平気で言っているが、そのような接線は現実には存在しないのである。一点を通る直線は一意的に定まらないのだ。だがこの接点にはdy/dxという潜在性があり、それが無数の直線が接近してゆく理念的地平としての接線を指し示すことになる。だから存在しないが無ではないのである。だが接線のイメージに囚われると、一点を通る直線が一意的に定まるという矛盾を犯すことになる。
こうした表象批判はスピノザによるものであろうと推測される。スピノザの神の観念は表象ではないのであり、それが難解である理由だが、うっかり読むとプラトンイデアに似てしまうのである。スピノザが好んで例とする三角形の観念は、イデアとしての三角形と誤読されやすい。どちらも現実に存在しないが無ではないという共通性があるからだ。
だがプラトンイデアは真善美という共同体に容認されたイメージとしての観念であるのに対し、スピノザの神の観念は真善美とは一切関係がなく、いかなる表象化も拒むものである。だがそのことは神を出発点にしているから可能となるのだ。(確かにスピノザは真理に言及しているが、それは神の真理であって人間的真理ではない。共同体に属する人間には理解しがたい真理である)
柄谷行人の苛立ちは、神を出発点としない限り自分の思考がプラトニズムに似てしまうという苛立ちであろうと思われる。柄谷行人が共感しているヴィム・ヴェンダースの天使は、共同体に容認されたイメージの物語としてみるとプラトニズムになるおそれが多分にある。
すると神を前提せずに共同体に容認されたイメージとしての観念を批判するには、共同体の外部に出るという戦略を採らざるを得ないだろう。柄谷行人が他者とか外部にこだわるのはそのためである。共同体の外に出るということは、自分自身もまた外部であるから自己批判は生じないのである。その代償として言葉はイメージ抜きの力として一義的になり、美的体験はあってもそれをイメージとして戯れることはできない。蓮實重彦のような美の快楽についての饒舌は消えてしまうことになる。柄谷行人の文芸批評は饒舌ではないが快楽が欠けている。
両人が共同体を批判するのは孤高を保つためでもなく、田舎趣味への反撥でもなく、表象の限界を知っているからである。それは共同体によって容認されたイメージであり、あ・うんの呼吸であり、符牒であり制度であり物語である。何かが何かに似てしまうということは退屈であり、何の刺激もない。刺激とは思考を強制する力であり、それ自体はイメージではない。この対談集に限界があるとしたら、これもまた世間話にいくぶん似てしまっているというところにあるが、やはり力を持つ作品で勝負するしかないのであろう。少なくとも両人の著作が退屈でないことは確かである。
私は良い批評とは、批評している作品を読みたい気分にさせる批評だと思うのだが、それは読ませる力を持っているということである。
ということでしばらく、両人の著作を読んでみることにする。