『批評あるいは仮死の祭典』 蓮實重彦著

さて蓮實重彦から読み始めるとしてどこまで遡るかであるが、いっそ手持ちの中で最も古いこの本まで遡ってみた。奥付きをみると1974年発行とある。
ケバケバしい題名なので留学後の未熟な若書きかと勘違いしていたが、安岡章太郎論や藤枝静夫論を発表した後の作であるから、それなりに円熟した時期のものである。この「仮死の祭典」というタイトルは、末尾のリシャール論にはふさわしいものだが、この本全体を示すものとしてはあまり適切なものではないだろう。
私の知る限り、我が国で最初に「知識」ではなく「知」という言葉を使い始めたのは、中村雄二郎訳の『知の考古学』(1970年刊)ではないかと思うが、それはあくまでフーコーの訳語としてである。蓮實重彦が評論家としてこの「知」という言葉に日本独自の意味づけを与えて使用し始めた頃から、様々な出版物に「知」が普及していったように思われる。
この本の冒頭に「知識」と「知」を区別する理由が書いてある。
著者によると「知識」とは「個別的に獲得され閉ざされた領域に保存されることしかできないもので」であり、「個人の最深部に、あるいは歓喜として、あるいは苦悩として文体化されている交流不能の眩暈」である。
これに対し「知」とは、「人間存在一般のあり方を規制する矛盾と闘争の場、破壊と生産の場であるエクリチュールの平面」である。
こうしてみると私は誤解していたが、著者は決して「知識」を貶下して「知」を称揚しているのではないことが分かる。むしろ「知識」は交流不能の特異性であるが、それを文章化してしまうと、特異性から一般性へ否応なく変貌し、交流の媒体である「知」となってしまうと述べているに過ぎない。
あるいは「知識」と「知」(知識の交流)の分割線をずらしているとも言える。
それまでは一冊の本またはその集積である図書館は知識の宝庫であったが、著者の引いた分割線によって、一方では「知識」はもっと奥の交流不能のものとなり、他方ではおよそ文章として書かれたものはすべて固定した意味の集積ではなく、変貌し続ける「知」として扱われるようになったのである。それはまさにフーコーが古文書を扱う方法そのものであるが、フーコーには「知」はあっても「知識」との対比という視点はない。この「知識」を個人最奥部の交流不能な「眩暈」として捉える見方は著者独自のものである。そしてこの著作においては失語症である「眩暈」が頻出するのである。
私はこの本を最初に読んだ時、著者をフーコードゥルーズの良き解説者という風に捉えていたのだが、読み直してみると最初から解説者の域を超えており、批評家としての姿が鮮明である。
だがそれは他面では、対象に密着した解説ではなく、多分に著者の視点から切り取られたものである。
著者によると、抑圧と排除の体系を明らかにしたのがフーコーであり、排除の外在的な手続きとして「禁忌」「分割と拒絶」「真実への意志」があげられている。内在的水準としては「注釈」「作者」という二つの概念がある。
ゆえに言説の自由な生産にとって批評家と作者は邪魔者ということになる。
著者はそのように整理しながら、さらにその整理にも距離を置いている。つまりフーコーが「人間の消滅を説き続ける体系の人」であるように見えるのは、フーコーが黙っておればいいものを、あえてわざわざ言説と戯れて分析してみせるからであり、たとえ誤解を招いても言説と戯れたいという「欲望の人」だからだというのである。
このようにエクリチュールとの戯れを欲望とか快楽と捉えるのはバルトの影響かもしれないが、本人の意志に反する欲望というのは、著者独特の欲望観である。著者自身も自分の意志に反して欲望しているのであろう。
例えば表象を批判しているはずの著者が、フーコーの顔について「生まれたての赤子のように無防備で、老年と思春期とを同時に露呈したような無時間的な顔」というようにイメージ表象と戯れているのである。
だから著者によるとそのようにして書かれた文章は「起源なき反復」なのであって、失語症である眩暈としての自己とは無関係なのであろう。講義中のフーコーの顔をみて周知の仲であるにもかかわらず、「ある眩暈が存在のすみずみまで麻痺させてゆく」と述べられているのは、おそらくレトリックではあるまい。
思えば蓮實重彦の文章ほどイメージ豊かなものはないのだが、そうした文章でイメージを批判していくのだから、ハスミがかった文体となるのも当然である。
それにしてもフーコーの『知の考古学』は読んでみてもさっぱりワケが分からなかったのだが、著者のいう「未決定」と「遠ざかること」という二つのキーワードでかなり明瞭になる。私は言表(エノンセ)の意味がつかめなかったのだが、フーコーの説明例では、キーボードのAZERTは言表ではないが、タイプライターの教則本に書かれたAZERTは言表だというのである。この例よりもラテン語の格変化の文字列の方が分かりやすいが、これらの例示は、言表は文法では説明できないことを示している。文法規則によらない記号の配列があり、その配列順序を決めた現実の諸条件が存在し、それらの条件によって出現した記号が言表だということになる。だからタイプライターのAZERTは物体であるが、教則本のAZERTは、そのように配列して表記せざるを得ない現実の諸条件があるから言表だということになる。同様に乱数表も「継起の蓋然性を増大させる」ことを否定した数の集合として言表なのである。
学問の言説は既に選別と排除の後に出現したものだ。それは言語学も例外ではなく、言語学は何らかの条件によって出現した後の言説を対象としているに過ぎない。したがって、選別と排除、肯定と否定、それらを未決定の状態におく概念が「言表」である。AZERTは文法によって文章から排除されるのだが、言表は排除しないのである。
これは言わば、言説を対象化せずに、言説に内在化する動きのようでもあるが、完全に内在化してしまうと言説は見えなくなる。言説が言説としてあるのは、時間によって我々が言説から遠ざかっているからである。古文書(アルシーブ)とは時間によって遠ざかりつつある言説の後ろ姿であり、それは全体化しえないものとされている。
ただし遠ざかるといっても完全に言説と関係が切れてしまうのではなく、言説と我々との関係について、主体が言説を対象化するのではなく、言表が出現する諸条件によって解明していくのが考古学(アルケオロジー)というわけである。
これはもう一度『知の考古学』をじっくり読む必要がありそうだ。
この本の最後のリシャール論はさっぱり分からない。意味不明である。いかなる方法論も意味づけもなく、ただ対象と密着することに徹した批評のあり方が示されている。
これはバルト論の「零度のエクリチュール」を経由して到達した、それこそ零度の批評ではないかと思われる。
それにしても世の中にはもっと重要な問題があるではないか。トランプの大統領就任、自然災害、北朝鮮財政問題・・・ だが他面では問題はいつの時代にもあったのだし、現実が苛酷であればあるほど文学が貴重であるように思えてくる。ただそれは魂の最後の拠り所あるいは慰謝としてではなく、文学においては夢と破綻が相関的に依存しあうこと、悲劇とユートピアが同一平面の裏表であること、生きることの意味と無意味が同一であることが明確になるからだと思われる。