『路面電車』 クロード・シモン著 平岡篤頼訳

本の帯に、「堀江敏幸氏推薦」とあり、一体誰だっけ・・・と思ったのだが、思い出せばフィリップ・ソレルスの『神秘のモーツァルト』の訳者であった。作家でもあるそうだから、この人の推薦に広告価値があるということだろう。クロード・シモンなら別に推薦は不要であろう。読む人は読むし、読まない人は読まない。
この小説は、路面電車に乗っていた少年の頃の生活と入院している老人の二つの箱が交互に開かれる構造になっている。少年と老人が同一人物であるという説明ははじめのうちはない。ただ路面電車le Tramwayと老人が運び込まれた病院の待機室TRANSITが頭韻になっているので、同一人物であることが暗示されている。
この二人が同一人物であることが確定するのは45頁であって、二人部屋の病室で老人が病室の薄ぼんやりした灰色を《デュピュイトラン博物館》の入り口の絵のようだと思うところである。この博物館の名前は少年時代の場面(28頁)でも出てくる。
デュピュイトラン博物館とは奇妙な名前だがMusee Depuytrenというのはパリ大学医学部の博物館で、この小説の少年時代の場面はスペインに近い地中海側の古都であるから、そこにある博物館ではない。ただ少年の頃の回想として、「デュピュイトラン博物館とやらの恐怖劇が禁止されてからは」と回想しているのである。
私はこれが、Depuis-Tran <路面電車のtramから病院の待機室のtranまで>と言っているような気がしてならない。
またこの小説は少年と老人の場面だけでなく、後半から中間の時期と思われる場面が挿入されている。それは船、飛行機、戦場と多岐にわたるのだが、やはりこの小説で感動的な場面はベルギー国境に近いところで、騎兵の主人公が幼い頃の友人であり歩兵姿となったギャギーと出会うところだろう。
ここで相互に独立した二つの箱が一つになる。この二つの箱は一人の人物の回想としては、あまりにも微細すぎるのである。もちろんプルーストも微細なのだが、それにしても回想特有の多孔質の霧に覆われているようなところがある。それがクロード・シモンの場合はスーパーリアリズムというか、路面電車の運転手が口にくわえているタバコが茎片でふくらんでいるところまで描写されている。これは回想というにはあまりにも過剰な微細であり、少年期と老人期の場面はそれぞれ独立した世界のようにみえる。というか、独立した世界を言葉で創造しているのである。
この二つが融合して、最後のパラグラフへ収束するのだが、そのパラグラフではもはや人は存在しない。ただ、非人称の視線がさまよい、誰も拾わない木から落ちたオリーブの実、黄色い一株のアロエ、ゲッケイジュの木々、陽に焼かれた芝生、等々が並べてあるだけである。
こういうことは思い込みだから書くべきではなかろうが、あえて言えば、やはりこの老人はギャギーを愛していたのであろう。だから二つの回想が最後に融合し非人称となるのである。
愛が語られないのは、回想のイメージに愛のイメージを重ねても仕方がないからである。それは虚構の愛であり言葉に力を与えることはできない。
バルトによると愛情のないテクストとは、書きたいことが書きたいままに書かれたテクストだという。クロード・シモンの小説は個人的感情が回避された小説であり、愛は語られないが、愛情のあるテクストである。