『反=日本語論』 蓮實重彦著

この本は著者にしては珍しく家庭内の身辺雑記をまじえたエッセイのような趣きがある。
しかし、それはあくまで趣きであって、読み進むうちに、なぜそのような書き方をしているのか、その必然性が分かるような仕掛けになっている。
つまり、著者は当時流行していた日本語論について、それらの議論が抽象的であるとして批判しているのだが、なぜ抽象的かといえば、「美しく正しい日本語」などはせいぜい文法的に正しくて論旨が明快というだけのことであり、それらの議論には本人が具体的に日本語とどう関わり、そこからどのような葛藤をへて日本語を体験したのかという視点が欠けているからである。つまり自分自身の言語体験を一切欠いたうえで、日本語の乱れを抽象的に論じても仕方がないのである。
著者はバイリンガルの子息を通じて、言語の規範性が一面的なものでしかないことを様々な形で体験されており、そのことが身辺雑記風な書き方となる理由であるが、それらのエピソードは綿密に計算されて配置されいて、最終的には読者に言語の畸形性を実感させることになる。(昭憲皇后の金剛石は凄い)
また、他の作家の例として、野坂昭如の『おれはNOSAKAだ』と大岡昇平の『萌野』があげられているが、いずれも外国における日本語体験が内容となっている。
特に大岡昇平が孫の名前の『萌野』(もや)を湯桶読みとしても変だという異和感をもっていたにも関わらず最終的に受け入れたのは、その名前が『野火』のオマージュとなっているからではないかという読みは鋭い。
こういう例示は、いわゆる「文章読本」などの模範例として森鴎外泉鏡花などを並べる趣味とは一線を画したものであり、言葉というものを生の一場面として捉える著者の姿勢によるものと思われる。
著者の例示する言語体験は美しさや正しさとは無縁であり、とまどい、苛立ち、異和感などが中心となっている。ではなぜ、そのような言語体験が重要なのかと言えば、それらの葛藤を受け入れることが他者を理解することにほかならないからである。
日本語には美しさも正しさもないのであって、国語学者や文学者が日本語をどう守ろうとしてもそれはごく限られた部分でしかなく、常に日本語は変貌しつつあり、むしろその変貌する方に言葉の力があるとしている。
さらに欠語、沈黙、錯誤、言語障害なども言語体験として意味があるのであって、それらを言語から放逐するような視点にも反対されている。
昔、これを読んだ時は、子煩悩の親がバイリンガルの息子を自慢しているように感じられて読むのをやめたのだが、もったいないことをしたものだ。著者の日本語論は在日外国人や言語障害まで視野に入れており、どうみても、これこそがまっとうな日本語論のように思われる。