『文学批判序説』 蓮實重彦著

「序説」というタイトルからすると一貫した論説を予想するのだが、内容は9つの作家・作品論と文芸時評などで構成されている。
論じている対象が多岐にわたり、とりとめもないのだが、それでもこの本について触れたくなったのは、吉本隆明に対して著者が示している共感である。これは意外であった。
およそ著者の視点からすると、吉本隆明の『悲劇の解読』などは悲劇の矮小化・凡庸化でしかありえないと思われるのだが、そうではないのである。
蓮實重彦吉本隆明はどうみても水と油であり、批評方法も対蹠的に思われるのだが、一体どの点で共通しているのか。表層から離れて内心の声などを探るのはそれこそ禁じ手であるが、あえて言ってみれば、この二人が言いたいことは「おまえら矛盾を矛盾として捉えながら、よく平然としていられるな」ということであろう。
つまり批評家自身がスキャンダルにもならず無傷でいられるとしたら、それは世評に迎合しているだけのことであり、本気度が足りないということである。
例えば吉本隆明反核異論は立派なスキャンダルであったが、あの批判はトゲのようなものであって、当時の文芸作家による反核の署名運動は人類絶滅というSF的表象に逃げているだけで、本気で米ソと刺し違える覚悟がないという批判である。これは現在の反核平和運動についてもあてはまるのであって、超大国の支配体制を容認し、その利益を享受しながら、ただ平和だけを訴えても空しいのである。
他にも吉本は政治家の汚職疑惑を擁護していると誤解されかねない発言もあったが、それは擁護しているのではなく、政治家の汚職与野党問わず全面的に本気で追及したら代議制が崩壊してしまうことを覚悟したうえで追及しているのかと問うているに過ぎない。
ただこういう批判はいかにも批判のための批判のようで、世間にはウケないだろう。
スキャンダルとは空気が読めないということである。大人げないのである。
蓮實重彦のハスミがかった文章も今では芸風の一つとして受容されているが、70年代に初めて現れたときはスキャンダルであった。だが、あの大人げない文章は思いつきで書かれたものではなく、そう書かざるを得なかったのである。限界体験として文学の言語に接しながら、まともな日本語で批評するならば、それは限界体験の表象に過ぎないことになる。限界体験とは批評家の文章自体が畸形となることである。
そうした観点でみると、この本では小林秀雄吉本隆明については、まともな通常の日本語で書かれており、後藤明生中上健次などの作品については恒例のハスミ節で批評されている。ということは同業の批評家の文章は限界体験ではないのだろう。やはり使い分けているのが分かる。
この本を読むと蓮實重彦にとって後藤明生が最も好みの作家であることが推察される。
文学に似ることがないように書かれた言葉が不可避的に文学になってしまうという作品が好みのようだ。逆にいえば文学に似た作品があまりにも多すぎるということである。