『アウトサイダー』 コリン・ウィルソン著 中村保男訳

私のような哲学好き、正確に言えば翻訳哲学好事家は、それにしても一体何を哲学に求めているのか? 
まず、哲学が現実社会に何の役にも立たないのは今更いうまでもない。ならば詩や小説と同じように心を豊かにするかといえば、これも疑問である。豊かになるどころか読み過ぎると精神病になりかねない。ハイデッガーのように哲学が詩に近づくのであれば、詩を読めばいい。
するとこの「役に立つ」という言葉が曲者であるとしても、社会もダメ、精神もダメ、となるとあまりにも消極ではないかという気がしてくる。
役に立つかどうかはさておき、何らかの強い欲求があるのは確かなのだが、その欲求が何であるかが見えないのだ。哲学は単に面白い。それだけである。
本書は、そのような問いに一定の答えを与えてくれるものである。著者が専門の哲学教育を受けていないことに共感を覚えるわけではないが、素人ながらおそろしく大量の本を読破しており、しかも25歳にして既に一貫した視点があるのも驚きである。
本書を哲学と思うと期待はずれである。ならば哲学・思想の生態学あるいは社会学的なエッセイかといえば、それほど系統だったものではなく雑然としている。にも関わらず一貫している。この統一感はどこからくるのか?
それは本書が哲学のアウトサイダーだからである。著者はその後、オカルトへ関心を移していくので、やはり哲学とは無縁の興味本位の作家だったかと侮っていたが、本書を読むと、著者が哲学や思想に関心をもつ動機が理解できる。
つまり著者は常人とは異なる能力、ズバリいえば超能力を求めているのであり、哲学のアウトサイダーとは、哲学にそうした能力を探究する者である。
哲学を通じてスピリチュアルな世界へ関心が発展していくことは、哲学の素人がたどる、おきまりのルートだろうか。
だがこのことは盲点であり、検討に値する。少なくともスピリチュアルについて徹底的に探究した唯一の哲学者がいる。それはベルクソンである。あの哲学をまともな講壇哲学と思うのは誤解ではないか。なんとなく胡散臭いところがあるのは、ベルクソンもまた哲学のアウトサイダーだからだと思う。ベルクソンのいう直観は概念ではなく、探究すべき能力である。しかも人間は自己を直観しているのだから、誰もが既にその能力を最低限で持っているのだ。
してみると本書はなかなか侮れないように思える。思想のパノラマとして概観する面白さもあるが、著者のいう「アウトサイダー」は概念ではない。単独者への共感である。単独者が何であるかを概念で説明するのではなく、単独者の内側から共感によって直観的にその世界を把握しようとするものであり、あらゆる哲学者・思想家に「アウトサイダー」のレッテルを貼るのは、それが本質的に概念で説明することができないからだ。それは著者の責任ではない。著者はそのこと、不可能であることを発見したのだ。