『漱石論集成』 柄谷行人著

本書は漱石論として完璧であり、文章に快楽が乏しい感じもするが、そこは実際に漱石を読むことで補えばいいだろう。
快楽が乏しいというのは賞賛であって、つまりこの評論は文芸評論らしくないということである。いわば漱石マルクスのように読み解いており、作品として賞味するという姿勢ではない。
著者によると言文一致とは、「言」が内心の声であり、それがそのまま「文」となることで、近代的自意識が誕生したということである。つまり自意識とは言文一致の制度的産物であって、自意識の表現として言文一致が生じたのではないことになる。
名所旧跡などではなく、誰も注目しない風景を描写するのは、そうした自意識によるものであり、「自然主義」は制度的産物ということになる。
漱石漢文学を最後まで手放さなかったのは、懐古趣味によるものではなく、制度的な言文一致に対する「文」の多様な可能性を失いたくなかったからであり、『こころ』で述べられている「明治の精神」とは失われた可能性であるとしている。
日本人の漢詩というのは奇妙なもので、中国人にも読めるのだが、日本人は中国人の表音で読んでいるのではない。つまり中国文学ではないのだ。
著者は様々な例をあげて文の不透明性を指摘し、漱石の多彩なジャンルは、文の可能性を切り捨てなかったことによるとしている。
著者の漱石論の独自性は、漱石の苦悩を三角関係や自意識などによるものではなく、存在の亀裂として捉えたことにあると評されている。
だが疑問に思うのは、その存在の亀裂は何によるのかということである。著者の指摘するとおり出自の経緯は副次的要因に過ぎない。漱石の苦悩はそうした様々な葛藤が取り除かれたとしても、なおも消えないものである。
するとこの「存在の亀裂」もまた文の制度性に対する疑いであり、漱石が複数の「文」を持ったところに根本の原因があるのではないか。つまり漱石の多彩なジャンル表現と存在の亀裂とは繋がりがある。
だが、このことは一つの文しか知らない私にとっても無縁ではない。日常生活が安心できるのは一つの文しか知らないと思い込んでいるからであり、安心するために文の多様性を切り捨てているのだ。例えば言文一致は、本当に自分の内心を表現しているのだろうか?
著者の指摘するとおり、言文一致も内心の声を表音として文にするのであれば、「は」「へ」は「わ」「え」と表記しなければならない。だから表音化の進展が途中で制度的にストップしているのである。
この指摘で思い出すのは、『言語にとって美とはなにか』を読んでいるときに、異形ともいえる引用文に出会ったことである。それは、ブイコフスキー『ソヴェート言語学』(高木弘訳編)からの引用である。

動物にとって、他のものにたいするその関係わ関係としてわ存在しないのである。(勁草書房版全集18頁)

このような表音の徹底化の動きが当時あったのだろうか、興味深い訳文である。
この表音化わ異形としかいいようがないが、それわ表音化がストップしたためであり、そのことわ偶然でしかないのだ。もし、この引用文のよ-に表音化お徹底するならば、むしろ、現在の「は」「へ」の表記の方が逆に異形かもしれないのである。
つまり一つの文を自然とする現在の見方そのものが制度的であり不自然なのである。
だが文そのものの確実性がゆらぐとき、現実もまたゆらぐのではないか。この引用文を目にしたときの異和感はそこから生じるのかもしれない。読みにくいという不満に解消しきれないシコリを感じるのだ。
著者は漱石についてジャンル論と存在論をばらばらに展開するのだが、それらは必然的に言葉と物として結合するのではないかと思う。
本書で最もスリリングな箇所は「漱石試論Ⅰ 階級について」であろう。この箇所で著者は漱石の苦悩の階級的限界を指摘しており、それは本書全体の論旨をひっくり返すようなものとなっている。だがそれは漱石論の限界を超えるので展開されず、有島武郎論へと転化している。