『対話でわかる 痛快明解 経済学史』 松尾匡著

例えば古色蒼然たる経済学史の本を読んでいて「投下労働価値」などという言葉が出てくると、「もう終わった概念だし・・・」という気がして本気で考える意欲が生じない。本書は経済学史には珍しい会話体の入門書だが、登場人物の名前が「江古野ミク」ということで、脱力系の感じを受けるにもかかわらず、なかなかどうして深い内容であり、考えさせるものがある。以下、参考になった部分をメモしておく。

アダム・スミス
スミスが分業の効能を説いたことはよく知られているが、重商主義を批判したスミスがなぜ自由貿易を主張するのか。分業と自由貿易はどう関連しているのか。
分業のためには市場規模が必要である。例えば運送業務について過疎地では独立した事業として分業化しないが、大都会では運送業務が分業化して運輸業が成り立つ。
したがって自由貿易によって市場規模を拡大することが分業の発展につながることになるからである。重商主義は関税や規制による自国優先の貿易政策であり、自由貿易とは異なる。貿易収支で金を貯め込むのではなく、分業による生産性向上と市場規模拡大により、自国の消費生産物を増大させることが国富であるとしている。
スミスの問題点は商品の自然価格を賃金・利潤・地代を足し合わせたものと考えていたことであり(価値構成説)、そのことと商品の価値が投下労働価値で決まるとする労働価値説とが矛盾していることである。この点についてスミスは「支配労働価値」という概念で切り抜けようとする。つまり自然価格には利潤・地代が含まれているが、A商品の自然価格で雇える労働量(支配労働価値)とB商品のそれとが等しいならば、両者は等しい交換価値があるとする考えである。
つまり、その商品の生産に直接間接に使われた労働量が「投下労働価値」となり、その商品と交換に雇える労働量が「支配労働価値」となる。そして商品の自然価格には労働以外に利潤・地代が加わっているから、支配労働価値>投下労働価値、である。スミスの労働価値説の矛盾は両者を混同して、支配労働価値=投下労働価値、と誤解していたことによる。
(私見:こうしてみるとスミスの支配労働価値は、商品表象に帰属する労働価値であり、投下労働価値は商品表象の外から商品表象を生産する労働価値であるとも言える。フーコーは『言葉と物』の中で重農主義とスミスの労働価値の差異を商品表象の内と外によって説明したのだが、正確にはスミスの労働価値概念は過渡的に二つの性格があり、商品表象から完全には脱し切れていないことを示している。これはフランスから帰国して国富論を執筆したことと無関係ではないだろう)

リカード
リカードが分配論を重視したのは、スミスの労働価値説と支配労働価値との矛盾を追及したためである。スミスは文明が未発達の時代は自然価格は投下労働価値のみで決まるが、文明が発達すると生産設備や土地に対する利潤・地代が自然価格に加わるとしていた。
だがこの価値構成説の考えでは、賃金が上昇したら自然価格が上昇するだけであり、賃金上昇に伴って利潤率が減少するという関係が説明できない。
よってリカードは「価値構成説」を否定し、生産手段もまた労働によって生産されるものであるからすべて投下労働に還元できるとして、自然価格は投下労働量のみによって決定され、地代と賃金を控除した残りが利潤であるとする「価値分解説」に立った。
この場合、生産設備は確かに投下労働量に還元できるが、土地はそうではない。この問題をリカードは「差額地代」で解決することにより、投下労働価値で自然価格を体系づけた。
さらにスミスの自由貿易論も比較優位説により理論的に根拠付けた。
リカードの問題点は投下労働価値による交換価値と均等利潤率で成り立つ自然価格とが同じであるとしたことだが、これは当時の生産水準では投下労働価値と自然価格とのズレが7%程度に過ぎなかったことによる。

マルクス
商品の自然価格が投下労働価値からズレるというリカードの問題点を、「生産価格」概念によって解決した。
マルクスは資本制社会は短期的には恐慌などの様々な歪曲と変動があるが、長期的には変動が均されて均衡し、生産力の増大により次の社会を準備するものとしてプラスの評価をしていたと著者は評している。
置塩信雄は、自然価格が投下労働価値どおりであるか否かとは無関係に、いかなる価格であっても利潤があればその背後に必ず搾取があることを数学的に証明した。(マルクスの基本定理)
また、全商品の総生産価格=総投下労働、と、総利潤=剰余労働とが同時に成り立たないことも証明された。この点はマルクスの誤りとなっている。
またアソシエーションによって生産調整するというマルクスの描いた未来像は、当時の生産水準に基づく発想であり、現代のように高度に発展した経済では市場メカニズム以外の方法で生産調整することは不可能であると著者は考えている。
マルクスの言う「搾取」は、スミスの見えざる手と同じように、誰が意図したわけでもない自動的な仕組みである。マルクスは悪者探しや不正追及が資本主義の批判として無力であることを知っていたから『資本論』を書いたのである。
短期的不均衡を長期的に平均したら長期均衡体系が設定できるということを数学モデルで証明することは未だ誰もやっていない。

○ジェボンズメンガーワルラス
経済学の教科書では「限界効用」「限界費用」「限界生産力」など、限界という言葉が頻出するが、限界とは微分であるから二つの変数の関係概念である。だから何と何の関係であるかを把握すれば、それらの概念を明瞭に理解することができる。
例えば「限界効用」とは効用単独の概念ではなく、消費量と効用との関係概念である。「限界費用」は生産量と費用との関係である。同様に「限界代替率」も関係している二変数が何であるかを知れば理解は容易である。
二変数間の関係であるから、微分効用、微分費用、微分生産力などとした方が誤解がないかもしれない。
ワルラスの法則」は、すべての市場の超過需要の和はゼロになるということだが、ワルラスは方程式の数と変数の数が一致していることを確認しただけで、均衡解の存在を証明したと思い込んでいるが、証明になっていない。なぜなら相対価格がマイナス解となることもありうるからである。これを証明したのが、「角谷=ブラウワーの不動点定理」である。
ジェボンズメンガーが分析したのは個々の当事者同士の取引であったが、ワルラスは市場全体の需給関係につなげたのだが、当時の数学では無理だった。
ワルラスのせり人」という概念は重要であり、この概念がなければ市場全体の動きを個々の当事者の判断から要因づけることができない。
さらに、この「せり人」概念は現実の資本主義市場をモデル化したものでもない。決定的に異なるのは、事前に生産されているのではなく、当事者の頭のなかで提示した需給計画をせり人によって価格調整した後で生産することである。これは現実の市場とは異なる。
むしろ、計画経済の計算手法と解する余地もあり、ワルラス社会主義に共鳴していた。

○マーシャル
需要曲線と供給曲線が交叉するマーシャリアン・クロスを初めて考案した。
マーシャルは需要曲線を限界効用、供給曲線を限界費用で根拠づけた。よって生産者余剰とは、リカード地代論の差額地代に相当する。そして需給曲線の交点で、消費者余剰と生産者余剰の和が最大となる。
ところが生産水準が発展する長期を考えると、限界費用は供給量に関係なく一定になり水平となる。この場合は、需要曲線がどんな位置にあるかは無関係に、価格は供給側の要因のみで決まる。つまり古典派の自然価格、マルクスの生産価格となる。
逆に魚市場のように供給量があらかじめ決定されている場合は供給曲線は垂直になり、価格は需要側の要因のみで決まる。
こうしてみると「一時的」均衡においては限界効用学派の「主観価値説」、「長期」均衡においては古典派の「費用価値説」、短期均衡では両者が影響するということになる。
また、マーシャルは市場均衡が社会的余剰を最大にするとは言っていない。貨幣の限界効用が人によって不変である限り最大となるが、金持ちと貧乏人とで貨幣の限界効用が異なるのであれば、市場均衡は必ずしも社会的余剰を最大にしない可能性があることを認めていた。

ケインズ
ケインズが古典派も新古典派もひっくるめて「古典派」としたのは、彼らがセイ法則(諸財の超過需要の和は恒等的にゼロ)を前提にしていることで共通しているからである。
セイ法則が成り立つ前提は、収入を全額支出することであるが、通常は成り立たない。だが収入を全部消費せず余りが出た場合、現金保有しても利子が付かないから、合理的選択として預金・債券・株に余剰資金を回すであろう。それで収入は全額支出されたことになる。預金もまた銀行がそれを原資として貸付を代行するからである。よって世の中全体で貯蓄と投資が等しくなるように利子率が決定されることになる。よってケインズ以前のマーシャルらはセイ法則が成り立っていると考えていた。
しかし実際は、投資に回されない資金もある。銀行預金にしてもそのすべてが貸付に回されるわけではない。定期預金などはいつでも解約できるので、流動性(現金)とみなしうる。この流動性選好があるとセイ法則が破れ、不完全雇用均衡となる。
セイ法則は「諸財」だが、ワルラス法則は「諸商品」であり、両者は異なる。セイ法則が成り立っていない場合でも、例えば財全体が供給過剰であっても債券・労働が需要超過になっていればワルラス法則は成り立つ。
リカードはセイ法則を前提にしているが、マーシャルはセイ法則ではなくワルラス法則を前提にしていたようだ。したがってマーシャルは「セイの方程式」と呼んでいる。つまり恒等的にゼロではなく、諸財だけでなく、債券と労働を含めて均衡が成り立つと考えていたようだ。
だから決定的に重要な違いはワルラス法則に貨幣商品を含めるかどうかである。
諸財・労働・債券だけでなく、貨幣商品を含めてワルラス均衡を考えると、不完全雇用均衡が成り立つことになる。(本書の図はたいへん分かり易い)
マーシャルは貨幣市場の超過需要が恒等的にゼロであるとしていた。つまりワルラス法則から貨幣を排除していた。それが貨幣数量式におけるマーシャルのkの意味である。
マルクスもまた、資本家は得られた利潤から自己消費した後の余剰をすべて生産拡大に使うと仮定しているのでセイ法則を前提としていることになる。また、労働者の貯蓄は想定されていない。マルクスは言葉ではセイ法則が崩れる可能性を言及しているが、再生産表式ではセイ法則を前提としている。
(私見:軽い読み物と思っていたが相当硬派である。末永く読み続けたい本である)