『三島由紀夫全集3』 三島由紀夫著

この全集版の『禁色』の「創作ノート」をみると、「転生譚(イギリスに先例あり)」というメモがあり、当初は五つの事件により、思想・恋愛・社会・生殖・行動の問題を扱う構想があったようだ。結末における「檜俊輔」の救済についても何種類もの筋書きが検討されていて、構想としては『豊饒の海』に通じるものを感じる。人の考えることは二十年ぐらいでは変わらないのかもしれない。
この小説が奇妙であるのは、「現実の美」(美青年)と「虚構の美」(芸術)との対立関係を「南悠一」と「檜俊輔」という二人の人物に仮託して描いているように見えるのだが、その対立が成り立っていないという点である。
同性愛に関する他の小説とこの小説との決定的な違いは、この小説が倒錯者の世界だけでなく女性を含む一般社会においても美青年の美が影響を及ぼすものとして描かれていることである。このような描き方は他に類例のないユニークな描き方なのだが、無理がある。それは普遍的な美が現実に存在するということを自明の前提としているからだ。
だがそのような普遍的な美こそが虚構であることは作者も分かっているはずである。なぜなら、現実の生は常に美という様式から逸脱するものであるからだ。この小説の語り手は最初から「南悠一」を普遍的な美として語るのだが、そのこと自体が「現実の美」からかけ離れた「虚構の美」である。実際、後半になると「南悠一」は決して美しく描かれていない。また、『鏡子の家』においては美青年の収は特殊な者として現実的に描かれている。以後の作品において「南悠一」のような普遍的な美の体現者が登場しないのは、それが虚構としても現実的ではない強弁であることに作者も気がついたからだ。
するとどうなるか? ここに一つの大きな問題が生じる。
三島由紀夫の問いかけは、普遍的な美が現実に存在するか否かということではない。それが存在しないことは分かっていたはずである。だから自分が創造するということであり、そのためにはどうすればよいか?これが問いかけであり、それは早くから自覚していたようだ。
この小説の答は「虚構の美」を「現実の美」へ変換するということであり、その方法は虚構の作者である「檜俊輔」が自死することにより虚構を産出した「生」を様式として完成させるということである。
芸術と生は対立するものであるが、死こそは生の表現として、その二つを融合するものと考えていたようだ。
おそらくこの作品以後、三島由紀夫は「現実の美」を保留したのだ。そして夥しい虚構を書きまくって、最後に自死によってそれらが「現実の美」として完成すると信じたのである。実際、それは成功したのであり、三島由紀夫の作品は常に虚構を超えた凶々しいとも言える過剰がつきまとっている。