『ニーチェと悪循環』ピエール・クロソウスキー著 兼子正勝訳

本書の独自性は記号論によってニーチェ永遠回帰と超人思想を解釈したことにある。したがって著者の独特の記号論を踏まえないと最初の部分は意味不明であろう。46頁の「欲動の記号論の起源としての病的諸状態」から読み始めるのが分かり易いかもしれない。

この章は15頁におよぶニーチェ書簡(病状報告)の引用から始まり、著者の独特な記号論が詳細に展開されており説得力がある。この部分を読むと「脱中心化」などがいかに中途半端であるかが分かる。著者の凝縮された文章に比べるとかなり弛緩しているがパラフレーズしてみよう。

我々は病気というものを癌やウィルスなど外部からの攻撃と捉えるのだが、それは身体を私の身体として捉えているからであり、私を除外すると、そこには複数の衝動の葛藤があるだけである。そして我々の現実はこの葛藤から生じる苦痛と快楽しかない。それが我々の運命を知る唯一の情報源である。病気に伴う苦痛は脳からの信号に過ぎないが、脳は神経組織が最後に生み出した器官であり意識は苦痛や快楽の原因ではなく結果である。脳はこれらの苦痛と快楽を詳細に分類することによって意識を生み出す。脳によって自我が確立されるのは新しい刺激と古い刺激との境界線による覚醒状態だが、たえず様々な強度の刺激が脳に流れこんでおり、その覚醒状態は長続きしない。受容限度を超えた新しい刺激は古い刺激の痕跡との比較によって受容されるが、その結果、境界線は消滅する。身体からの信号が沈黙し「古い刺激の痕跡だけが承認され、自我の同一性が保証される」

著者によると以上のようなことから、本来無方向である刺激に意味(方向)と目的が生じることになり、永遠回帰とは意味と目的が消滅した諸衝動の波立ちということになる。

だが、ここで疑問が生じるのは、著者の解釈はニーチェの病気を重視しすぎており、その解釈はあまりにも受動的ではないか、ニーチェ思想はもっと能動的なものであり、意志の肯定、新しい目的定立、運命愛にあるのではないかということである。

これに対し、著者はニーチェの言う意志・目的・運命は、人間の意志でも目的でも運命でもないという。ニーチェのいう運命愛を自分の運命と誤解して、ニーチェの言葉から元気をもらったなどというのは勘違いであり、ニーチェは自分の運命など問題にしていない。

消滅したのは人間(自我)の目的・運命であり、ニーチェが探究したのは人間を超えた目的、人間を超えた意志である。そこに超人思想と永劫回帰が必然的に結合する根拠があるというのである。ハイデッガーニーチェ論ではよく分からなかったこの両者の結合が、本書を読むことではじめて納得できる。

標題の「悪循環」とは、この運命の新しいヴァージョンである。「はじまりと終わりがいつも一つに混じり合い、それゆえまさに目標も方向も廃棄されてしまうようなヴァージョンである。」

だが、それにしてもこの人間知性に対する反逆は、何か新しい知性を生み出すのだろうか? それとも無意識の闇へ消滅するのだろうか?

著者によると、「ニーチェは(頭脳の)知性の彼方に、われわれの意識と混同されるような知性よりも無限に広大な一つの知性があるのではないかと考え」ていたということである。

「思考はまだ内部の事件そのものではなくて、それもまた、諸情動の力の代償に対応する一つの記号論にすぎないのである」これは著者によるニーチェの引用である。ニーチェもまた記号を問題にしており、著者の記号論的解釈は決してエキセントリックではない。

著者はニーチェ「無機的な世界には誤解がなく、コミュニケーションは完璧であるように思われる。有機的な世界で錯誤が始まる」という言葉を引用しながら、記号の発生を考察している。無機的世界では強弱のあいだには議論の余地がない。力は結論を出している。これに対し有機的世界では交換と同化が必要であり、生存条件の確信に至る解釈が必要となる。ここに同類の見分け、同一性を見定める長い経験を経て、ついに比較可能な諸記号があらわれる。偶然に発生した有機的世界は無機的世界を模倣して生存条件の必然性という幻想を抱き、存続するための錯誤として諸記号が発生するということである。

著者によるとニーチェにとっては「意識的な」記号論を衝動の記号論に翻訳し直すことが問題だったという。だが、この無意識への意志は、意識的な意志でもあり、解きがたい二律背反である。

「生それ自体がこの(<永劫回帰>の)荘重なる思考を生み出した。生はいまやみずからの最後の障害を無視して進まんとする」

ここまでが序論であり、ここからがいよいよ永劫回帰の本番となる。

ニーチェにとって<永劫回帰>は一般に流通する観念ではなく、啓示という独自の覚醒体験である。なぜ永劫回帰が自我を解体するのか。自分の人生を何度もくり返し生きることを欲することは自我の無限の肯定ではないか。だが、永劫回帰の啓示それ自体がくり返えされるということは、その啓示体験が予め忘却されている必要がある。今、啓示を受けるということは、かつて受けたことを忘却していたからであり、また、くり返し啓示を受けることは、この啓示を受けた自我が将来失われることを意味する。永劫回帰が観念ではなく恍惚の瞬間をもたらす啓示体験であるとはそういうことである。永劫回帰の必然性を一挙に見てとる者は、現在の自我を非現前化することを意志する。そして現在の意識が確立されるためには啓示の忘却が必要である。そのとき、意志は欲望と必然となり永遠と相関関係になる。ニーチェの高揚した気分とはそういうことである。

永劫回帰>の意味と目的は、もはや人間の意味と目的ではなく、超人の意味と目的となる。そして超人は意図を持たない純粋な強度である。

それにしても<永劫回帰>は何の根拠もない妄想ではないか、エビデンスはない、それが正直な実感である。著者はこのことについて、<永劫回帰>はニーチェの独自の啓示体験であり、ニーチェはそれを公表するに当たり彼以外の人間たちの運命にどのように作用するか、そして歴史の流れをどのように変えるか真剣に悩んでいたとのことである。

「証明不可能な明証」を説明するためには、永劫回帰を暗黙のうちに前提する「思考のこうした形態は信仰を要請する」のではないか。

これに対してニーチェ永劫回帰の観念を科学的に根拠付ける試みとして物理と原子理論を研究したとのことである。

考えようによってはこの本はサドよりも過激である。サドは人間との絆を切断しながらも、言語によって作品を残した。だが、絆を切断したはずなのに言語を使って作品を書くとはどういうことかという問いかけはない。著者が解釈したニーチェ記号論によると、「自分が何を書いているかを意識することができるのは、まさにその瞬間に、書くということがおこるために何が生み出されたのかを自分が知らない」からである。

私はこの本を充分理解していない。それでも紹介を試みるのは、著者が何らかの鉱脈を掘り当てているのは間違いないと思うからである。