読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『カントの時間論』 中島義道著

例えば目の前の机が現実の客観的な存在であり、想像された机でもなく、夢で見た机でもないと何故いえるのか? また、それにもかかわらず現実の机とは別に、想像された机が存在しうるのは何故か? 本書は、そうした疑問に明確な解答を示している。

やや図式的だが、本書のカント解釈は、純粋統覚を主観的時間に対応させ、超越論的統覚を客観的時間に対応させている。つまり、すべての私の表象にはコギト「われ思う」が随伴するという意味での統一が「純粋統覚」であり、すべての私の表象が客観的時間において位置付けられているという意味での統一が「超越論的統覚」ということである。そして超越論的統覚が純粋統覚を基礎付けているからこそ、人は夢から醒めた後で、客観的時間の中で、夢を主観として位置付けることができるというわけである。

だから、私の表象はすべて「われ思う」が随伴しているから客観的対象として統一されるのではない。「想像された机」にも「夢で見た机」にも「われ思う」が随伴している。しかし、その純粋統覚によって統一された表象には客観的時間としての先後関係ではなく、主観的な先後関係しか存在しない。さらに超越論的統覚によってそれらの表象が客観的時間の中で位置づけられなければ、そもそも夢と現実の区別がつかなくなるのである。

著者は「客観的時間」という誤解を招くような言葉を使うのだが、この言葉によってカントの時間概念の特異性が明確になるのは確かである。本書を読むと、カントの時間概念を単なる主観的存在とする捉え方がとんでもない誤読であるということが分かる。たとえ主観であるとしても、少なくとも人間という種族に帰属する主観であり、秩序としてみた時間は客観的である。だからこそ人は時間を共有しうるのである。

著者によるとカントの時間概念と他の哲学者(ベルグソンハイデッガーなど)の時間概念は根本的に異なっているのであり、カントは物理学的時間と抵触するような「根源的時間」を否定しているのである。これはハイデッガーのカント解釈と対比してみたい刺激的な見解であるが、著者はカントの時間概念がたとえ現象の形式であるとしても、物自体の秩序と無関係ではないとしている。逆に時間概念がもしハイデッガーのような時間了解のみで説明しうるのであれば、それは夢と想像と現実の区別がつかない時間である。著者によると逆に計測可能な客観的時間があるからこそ、夢が夢の時間として成立するということである。

古来、カントは「物自体」を不可知の存在としながら、疑うことができない存在として前提していることに矛盾があると指摘されていたが、この矛盾に対する著者の見解は、「物自体」の秩序がダイレクトに客観的時間秩序に結合しているということであり、それが超越論的統覚の自己触発である。

こうしてみるとカントは一貫して感性と悟性の相互関係を支持していることが分かる。確かに時間は外的現象としては知覚できない。想起によって先後関係を了解しない限り時間は生じない。だが想起のみでは夢と現実の区別がつかない。計測可能な時間が成立するためには太陽の位置、時計の針などの外部知覚を必要とするのである。どちらが欠けても時間の経験は成り立たないのであり、超越論的統覚とは、感性と悟性の融合であるとしている。私は未だ著者の見解を正確に理解しているとは言えないのだが、少なくとも本書を読む限り、カントの思考が極めて真っ当であるように思えてくる。