『夏目漱石論』 蓮實重彦著

これほど面白い漱石論はないと断言する。夏目漱石を読みたいという欲望が強くかきたてられる本である。他のいかなる評論を読んでも本書に比べると色褪せてみえるというか、そもそも比較を絶している。著者が行っていることは漱石の作品の外を言及しないという単純なことであるにも関わらず、そのような評論がこれまで絶無であったのだから、これは希有の評論となっている。

にもかかわらず、著者は夏目漱石の作品自体には一向に眩暈されていないようだ。なぜなら、この評論において恒例のハスミ節がみられるのは序章だけだからである。

著者の文章がハスミがかっているのは決してカッコつけているからでも意匠でもなく、論じている対象の畸形性がそのような畸形的表現を強制しているに過ぎない。

そして序章は漱石の作品について論じているのではなく、本書『夏目漱石論』を論じている。ということは著者は漱石の作品ではなく、自分の評論の畸形性に眩暈されているということになる。つまり漱石の作品は畸形ではないが、作品の外である作家の漱石は畸形であるかもしれない。言及されない作品の外部が序章において漱石という畸形との出会いとして記述されているのだ。だからここだけハスミ節なのである。

このことは甚だ興味深い。内在的評論はその内容がたとえどれほど明晰であったとしても、その評論自体は畸形であるのかもしれない。そして評論が漱石に似るとすれば、そうした畸形性の共有としてしかありえないことを、この序章が示しているようだ。

この点、柄谷行人漱石論には畸形性はない。隅から隅まで有意義な文章で埋まっており、誰が読んでも納得できる。つまり超越論的な評論なのだ。

どちらも捨てがたい魅力があるのだが、私は本書の方に強く惹かれる。なぜなら柄谷行人の評論は過去に漱石を読んだ記憶と照合してなるほどと感心するのだが、本書の場合は、指摘されている事柄についてこれから漱石を読んで検証してみたいという、未来の読書へ促されるからだ。

これは著者の映画評論とまったく同型であり、抽象的に作品を論じるのではなく、あたかもスクリーンの映像をなぞるように表層の言葉に注意を集中することにより、いかに人は漱石を読んでいながら多くのことを見落としているかということを丹念に指摘しているのである。だから過去に読書した記憶は役に立たない。

そうした評論にどんな意義があるのかと問う人は、おそらく自分の読書体験の記憶に心地よく留まりたいのだろう。あるいは他人の意見を色々聴いてみて、自分の記憶を整理して文化の中に適切に位置付けたいだけなのだろう。

柄谷行人が超越論的で、蓮實重彦が内在的であるというのは、どういうことか。

例えば次の二つの引用をみると蓮實重彦の方が抽象的で柄谷行人の方が具体的な指摘となっているようにみえる。

 

漱石的「作品」とは、現在であることしか知らぬ言葉たちの戯れの場にほかならない。(本書60頁)

 

漱石の文では、「た」のような過去時制が少ない。(略)過去のことを書いているのだが、「た」がほとんどないために、ある統合された回想とならず、「現在」の意識が多方向的に拡散している。(『漱石論集成』243頁 柄谷行人著)

 

この二つの引用は奇しくも同じことを主張しているようにみえるが、柄谷行人の方がむしろ具体的に指摘しているように見える。だが、それはヘーゲルもまた部分的にみれば内容豊かであるのと似ている。文脈から離れた私の引用がいかに無意味であるかを示す好例であろう。つまり各々の本の文脈によれば、蓮實重彦のいう「戯れの場」とは漱石の作品そのものなのだが、柄谷行人二葉亭四迷森鴎外などと比較したうえで主張しているのであり、漱石を作品の外と比較しているのである。超越論的とはそういう意味である。これに対し蓮實重彦は作品の外へ出ることなく漱石の内的差異を明らかにしている。この違いは部分的な引用で比較してもどうにもならない違いである。